辻元さんは一貫して「先進国における継続的な経済成長は最早あり得ず、従って日本が国策の基本に『経済成長』を据えているのは馬鹿げている」と説いておられるが、私も基本的には同じ考えだ。日本は別にゼロ成長でも構わない。もっとも、膨大な国債の発行残を抱えているので、これ以上の国債の発行は抑える一方で、経常収支の黒字を定着させて、国債金利を国内でコントロール出来るようにしておく事だけは、財政破綻を防ぐ為にどうしても必要だと思う。
「ゼロ成長では、働いている人たちの収入が増えず、従って生活の質が向上せず、国民は希望を持てなくなる」という人がいるが、私はそうは思わない。現在の日本は物質的にはかなり豊かで、若者の関心も、最早「物質的な欲求の充足」より「周囲の人たちとのより緊密な繋がり」の方に向いている。また、現在の国民の不安は、老いも若きも、主として「失業」「格差」「社会からの疎外」「老後の不安」等にあると思う。仮に日本経済がデフレから脱却出来て、ある程度のGDPの増加が達成できても、これらの不安が解消出来なければ何にもならない。
そうなると、今後の国策の中心は、どう考えても「量」より「質」を重視すべきと考える。「ハードからソフトへのシフト」と言っても良いかもしれない。ざっくりと考えれば、下記のような政策が骨子になるのではないか?
1)「経常収支の黒字定着(これが財政破綻を回避する為の必須条件)」の為にも、「エネルギーコストの低減(これが空洞化へのある程度の歯止めにもなる)」の為にも、化石燃料の輸入の抑制は必須だが、その為には「省エネ社会の実現」という大目標を更に強力に追求する事が必要だ。(「原発再稼働」も「自然エネルギーの育成」も勿論必要だが、前者には「地域住民の不安解消」という大きな壁があり、後者には「低コスト実現には相当な時間を要する」という問題がある。)もし理想的な「省エネ社会」が日本で実現出来れば、これを可能にした技術やビジネスモデルは世界中に輸出出来る。
2)「情報通信技術」は、これまでに考えてこられた以上に重要だ。これを徹底的に利用する事により、「省エネ社会」がより効率的に実現出来るだけでなく、「新たな価値」が創造されて、国民の精神的な充足感を高める事が出来るからだ。「ネット社会」が健全な方向へと継続的に拡充されていくと、「ブラックボックス」や「不条理な慣習」が少なくなって、より公正な社会の構築も可能になるし、国民の不安や疎外感もある程度は解消出来る。
3)雇用を増大する為に、日本の産業立地価値を増大させる事が必要であり、この為には「既得権の排除」「諸規制の撤廃」「社会インフラコストの低減」が必要であるが、それにも増して重要なのは、「世界市場で一人勝ち出来る企業」を育成し、「海外からの投資リターン」を飛躍的に増大させる事だ。こういう企業の活躍で「経常収支の安定黒字化」が実現出来れば、後は「国内でのサービス産業の拡大が大規模な雇用を支えてくれる」事に期待出来る。
経済問題は、経済学者や産業界、金融業界のリーダーたちが語るのが常だから、「人間の精神的な欲求」について思いが馳せられる事は少ない。従って、今回は、「この面を重視しながら経済問題を考える」事を特に意識した。そうすると、「経済成長率」というテーマは色褪せたものになり、もっと本質的な問題が露出してきた。そして、この光の下で検証してみると、「日本が取るべき国策」は、上記のように比較的分かりやすく、且つ大きなストレスなく実現出来そうなものに見えてきた。
さて、それはそれで良いとして、ここで目を世界に転じてみると、見えてくる景色は若干異なったものになる。この関係の議論は今日のテーマではないが、折角の機会なので、今日はそちらの方についても若干論じておきたい。
地球人口の大半を支える発展途上国では、未だに「最低生活からの脱却」と「物質的な欲求の充足」が焦眉の問題である。「ネット社会の拡充」は、今や発展途上国においても必要不可欠のものになりつつあり、且つこれに要するコストは比較的軽微なので、「極めて現実的な要求」にもなってきているが、発展途上国には、先進諸国と異なり、これを霞ませてしまう程の「社会インフラ」「食料」「燃料」及び「各種の工業製品(自動車を含む)」に対する膨大な需要がある。
従って、発展途上国においては、高い経済成長率が当然維持されて然るべきであり、ここに住む人たちの生活水運は、それによって徐々に先進諸国の現在の姿に近づいていくだろう。これは「温度の異なる水を一つの容器に入れておけばやがては同一の温度になる」のと同じ理屈だが、先進諸国の生活水準を下げないでこれを実現する為には、「世界規模での経済成長」が継続的に実現されていく必要がある。
辻元さんは、「エネルギー資源の制約がこれを不可能にする」という仮説をベースにこれについて悲観的な考えを述べておられるが、私はその事についてはそれほど悲観的ではない。
先ず、全世界に存在する動物の数に比べれば人間の数などは微々たるものに過ぎないから、「食料不足」は大局的に見れば人類の日常を破綻させる要因にはならないだろう。何億人もの人たちが毎日のようにステーキを食べていたら、食物連鎖は間違いなく破綻するが、大豆やトウモロコシから霜降り肉にも勝る上質の疑似フィレ肉が作れるようになれば、そうはならない。また、淡水化された海水を最大限に利用する水耕法による食用植物の栽培や、降雨量の偏在をある程度平準化する気候制御技術の開発も、決して夢物語だとは思わない。
次にエネルギーだが、先ず、「省エネ型の社会構造と生活慣習」が世界的に確立していけば、生活水準の全世界規模での向上にも関わらず、世界的なエネルギー需要はざっくり言って半減出来るだろう。その一方で、先進諸国では心理的な拒否反応を受けている原子力発電も、発展途上国では「リスクの確率論」が冷静に受け入れられて、世界的には拡大していくと私は見ている。更に、技術革新の可能性を最大限に見積もるなら、新しい太陽光発電技術が「光・電子変換効率」を理論値に近い線まで近づかせ、全世界のエネルギー需要の2-3割程度を賄うに至る事も決して夢ではないと思っている。
私が「資源限界説」を唱える辻元さんと基本的に異なるのは、「技術革新がもたらす可能性」を辻さんよりははるかに楽観的に見ているからであるが、その私にも懸念材料はある。その最たるものは、アフリカ等における人口爆発が全世界の人口バランスを激変させ、世界規模での富の分配体制を不安定なものにする懸念である。不安定な富の分配体制がもたらす「生活水準のあまりに大きな格差」は、人間を相互不信と憎悪へと駆り立て、テロや地域戦争を頻発させて、全ての経済活動の効率を著しく悪化させるだろう。
科学技術は物質的な富を飛躍的に増大させる力は持っていても、人間の精神構造を変革させるには殆ど無力と言ってもよい。「人間の飽くなき物質的欲望」と「閉鎖的な空間内での暴力支配」が結びつき、これに「排他的な宗教心」等が絡まると、世界各地で制御不能な状態が生まれる。世界規模での「成長の限界」をもたらすものは、むしろそちらの方ではないかと私は感じている。