少し古い話で恐縮やが、国連の男女平等の格付けで、日本は135ヵ国中101位【共同通信】やという。こう見えて、ワシはフェミニストや。事態を深く憂慮しとる。
国連でこんな閑職(おっとと)やっとる連中にしてみたら、日本はフジ山ゲイシャの国やろ。ここは東京五輪での男女平等のアピールや。日の丸を背負う以上、失敗は許されへん。
オリンピックでの男女平等。まず、水泳などの水着は男女共通のパンツのみとする。え、競泳はレーザーレーサー型が標準? ……仕方ない、せめて飛び込みとシンクロはトップレスや。レスリング、ボクシングは当然男女とも全裸。レオタードなどとう卑怯なシロモノを、古代オリンピックの勇者が見たらなんと言うか。
世界標準ができれば国内の改革も早い。小中高の水泳の授業は……はい、今、左側のタブを見て、どの記事をクリックするか迷った、そこのアンタ!! ここでやめると後悔するで(やめんかったら、もっと後悔するで)。この思想。全くの絵空事ではない。黒柳徹子などの個性派を輩出した某私立学校。戦前から水泳は全裸やったそうや。
ワシ、大学に入ってすぐのドイツ旅行で、プールのロッカールームが男女共通で驚いたことがある。ただし横に小部屋がたくさんあり、そこで各自着替える。だからロッカーは分ける必要が無い。裸になるのは、異性の前でも同性の前でもイヤというわけや。今にして思うと、同性愛の問題も絡んでいたのかも知れん。
一方、同じプールのサウナは混浴かつ全裸。知らずに入っていると。さっき、プールで二言三言、話をしたドイツ人の男が入ってきて、乳房も陰毛も(一部その他も)丸出しの嫁さんを紹介してくれた。こちとら、ヘアヌードもない時代の大学生。股間を押さえるのに必死やった。
帰りの飛行機の中で、添乗員から「ヨーロッパでは裸とセックスが結び付かないのです」と言われ、漏れ聞いたヌーディストビーチのことなど思い出し感慨にふけっていた。裸を気にしないならしない。するならする。異性も同性も同じ。というわけや。
さて、さっきの全裸水泳を全国の小学校で本当にやったらどうなるか。人権侵害の訴訟が日本中で頻発するやろ。もっとも、これを革命政権か何かが強圧的にやったら、案外、数年で落ち着いてしまうかもしれない。そう考えるのは、逆の例があるからや。
現在、多くの中学高校で修学旅行の入浴で水着の着用が許可されるようになっている。もちろん、混浴やない普通の大浴場での話や。内風呂しかはいったことのない子供が嫌がるらしい。同性の友人の前でも裸はイヤやと言うんやな。ワシなら、風呂場で海パンなど逆に恥ずかしいがな。性に関する社会通念など、数年で簡単にひっくり返ってしまう。
ただし、これに宗教が絡むと話はややこしくなる。2010年、フランスはイスラム教の女生徒が髪の毛と顔を隠すブルカを着用して登校することを事実上禁止した。ベルギー、オランダも追随。
敬虔なイスラムの女性にとって、異性のいる場でブルカを外せと言われるのは、日本人が留学先の学校のプールで水着を剥ぎ取られるぐらいの話やろう。大げさなことを言っているわけではない。結婚前の性交渉を理由に、実の娘や妹を惨殺することがありうる文化圏や。何しろ、性犯罪被害者まで手をかけてしまうんやから。
ナイジェリアの女子高生100人誘拐事件【毎日新聞】も、動機は宗教やった。せめて、「ついムラムラっと来てやってしまった」ぐらいのことを言ってくれたら、例の船長の同類として、評価もしてやるが、イデオロギーではげっそりするだけや。こういう連中に、「アラーの他に神はナシ」などと言われたら、「そういうアラーも神じゃナシ」と言い返してやりたくなる。その場で惨殺やろけどな。
たまには惨殺されるのもええが、少し冷静な議論をしてみよう。テロリストの側から考えてみる。被害者はキリスト教系ナイジェリア人の少女たちや。西洋的な教育を受けて、西洋的な人生を送るコースに乗せられている。もし、イスラム教義で「女性は学校教育など受けずに、早々に結婚して子供を作るべきだ」となっていたら、自分たちが少女たちを解放したと言うことになる。
人権侵害と、少子化に悩む先進国の人間が言ってみても、彼らにとって説得力はない。人権の定義が違う。自国の少女たちがイスラムの家庭人になる権利を、西洋の洗脳教育から守る。確かにスジだけは通るな。なんやったら、近代学校教育の問題点に関して、良い資料を紹介してやってもええで。理論武装に使ってくれ。
一方、近代の側からこれを見ると、説得困難。選択肢は、突き詰めていけば、妥協か殲滅しかないということになる。宗教からスタートした議論は、たいていこうなるから、数千年の血で血を洗う歴史の結論が、政教分離や。
近年の日本人にとって、これは人ごとではなくなりつつある。被害者としてだけでなく、加害者としてもな。たとえば、靖国や。誰も言わんから科学者のハシクレとして、はっきり言わせて貰うが、「地球の各地で戦死した人間の霊が、はるばる九段の社に集うということなど有り得ない」。
科学万能ではない、証明できないが「英霊はあるんです」と頑張るのなら、こういう説はどう思う。「日本人の戦死者は地獄に落ちていて、無反省な政治家が靖国の鳥居をくぐる度に重い責め苦を受ける」。知人のシナ人から聞いた説や。ぶん殴るのは簡単やが、論破する自信はない。議論不能の場所では暴力しかない。
政教分離の神髄は、ある立場の人間にとって容認できない思想(「女性に教育は不要」「戦死者は神」「戦犯は地獄に落ちた」など)が、反論のできない論拠(教義)で、国家に公認されることの防止やと思う。はっきり言えば、政教分離は本質的には宗教の否定、信教の自由の限定になる。
マルクスは「宗教はアヘンだ」と言ったらしいが、我々、緩さを国是とする日本人は、「宗教は喫煙だ」ぐらいに構えて、「公の場からは極力排除する」「子供の手の届かないところに保管する」「健康のため祈りすぎに注意しましょう」ぐらいがええと思う。
今回は世界中走り回って疲れた……今日はこれぐらいにしといたるわ。
帰ってきたサイエンティスト
山城 良雄