「国民の命を守れない国家」とは --- 長谷川 良

アゴラ

韓国の珍島沖で起きた旅客船「セウォル号」沈没事故では5月14日現在、281人の遺体が収容された。犠牲者の多くは修学旅行中の生徒たちだったことで、事故を一層悲しくさせている。セウォル号の船長を含む4人の乗組員は殺人罪で起訴されたという。

韓国の報道によれば、セウォル号沈没事故では、適切な救援体制があれば犠牲者の多くは助かった可能性があったということから、人災の性格が濃い。だから、船舶関係者ばかりか、その最終的責任を担う政府の危機管理と事故への対応が問われているわけだ。


セウォル号沈没犠牲者の追悼集会が17日、ソウル市内で挙行された。関係者はロウソクを灯しながら黙とうを捧げたという。読売新聞電子版によると、集会参加者は「国民の命を守れない政府に、この国を任せられない」と訴えたという。

国家は主権者の国民の命、財産を守る責任を有している。国家の構成員の国民の財産、命を守れないとすれば、その国は少なくとも正常とは言えない。

ここまで書いて、安倍晋三政権が進める集団的自衛権の行使容認に向けた憲法解釈変更についての日本国内の議論を思い出した。セウォル号沈没事故と国家の安保問題はその規模、その影響で違いはあるが、政府が国民の命を守るべき責任があるという点で酷似している。国は国民の命を守るために自国の安保体制を強化すると共に、事故が起きないように規制や法の整理をしなければならない。

安倍政権は「現法体制下では政府は国民を守ろうとしても難しい」と判断し、その憲法解釈の変更を求めている。国家を任せられた政権担当者としては当然の対応だ。

隣国周辺で紛争が生じ、日本が攻撃を受け、国民の安全が危機に瀕した場合は当然だが、同盟国が敵国に攻撃され、軍事支援が急務の時、防衛義務を履行するのは当然だろうし、同盟国が攻撃に晒された場合、集団的自衛権の行使を考えるのは国家の危機管理内の問題だ。

集団的自衛権行使のための憲法解釈の変更に反対する人々は「日本の再軍備化」といった懸念を表明するが、その危惧心はかなり観念的だ。日本を取り巻く状況は中国の軍事的台頭で不安定さを増している。これが現実だ。

韓国民の「国民の命を守れない政府に、この国を任せられない」という訴えは至極正論だ。同じように、政権政党の集団的自衛権行使のための憲法解釈の変更要求も現実的な主張だ。

誰が国民の安全を守ってくれるのだろうか、米国か、それとも自国の政府か。日本は長らく他国の努力で得られた平和を享受してきた。そして国民の命を他国に任せてきた。

ソウル市民の「国民の命を守れない政府に、国を任せられない」という訴えを日本は自分の問題としてじっくりと考えるべきだろう。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年5月19日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。