「中締め」から眺める、日本の姿

玄間 千映子

「中締め」。
今年も、総会シーズンがやってきました。
日本ではどんな会合であっても、必ずといってよいほど最後のあたりに「中締め」があります。
この中締めの挨拶に、欠かせないのは“これから”という未来へのフレーズ。
会の発展と、会員の健康や事業の発展。
「開会」に登場するのは、“これまで”のこと、“これから”についての一言は、「中締め」というような分けがあるように思います。

そして、何より参会者が心を寄せるのが、中締めに行われる「〆の手打ち」。
一本締めとか、三本締め。
江戸流、大阪流、博多流など、打つ数も打ち方の作法も、地域色がいろいろあってオモシロイ。
けれど、ともかく音が「ばらけるのは良くない」ことだとは、どのバージョンでも皆、思っている。

音を一つにするには、「心を一つに」にせねばできぬこと。
だから、音が一つにまとまるのは参会者の心が「一つ」にできたことと同意と了解、その確認とされているように思います。音が揃うと、「さぁ、これから新たな1ページ」というような、気配が漂うようにも感じます。

どの会合でも同じなのだから、これは日本社会の一つの型、決め事といってよいでしょう。
社会として一つの型のあることは、必ずといって精神性に支えられているものです。では日本社会は営々と、「中締め」にどんな気持ちを抱き繋いでいるのでしょうか。
そんなことに思いを寄せたとき、ふと昨年の伊勢の遷宮を思い出しました。

遷宮は20年ごとに行われます。催行には、ものすごい労力と財源の確保が必須です。全国民、全員総意が前提なのが、遷宮という行事の特徴です。「総意」が取れねば、やれないのです。(それが、「遷宮」だと思います。)
そして、興味深いのは今の遷宮を行うことは、次回の20年後の遷宮に向かってのスタートでもある、ということです。

ということは、20年ごとに遷宮を行うということは、その都度人々に「今からの20年、次の未来は、この体制でいきますよ」との確認を取り、1ページ目をめくっていることと同意ではないかと思いつきました。 

この感情は、常日頃の会合で「中締め」に集う参会者の気持ちと重なるように映ります。
気持ちが一つにまとまらなければ、遷宮はできません。同様に、気持ちが一つにまとまらなければ、どんな会でも「次回」はありえず、未来はありません。

ああ、それで「会の発展と、会員の健康や事業の発展」という“これから”フレーズが中締めに登場するのも、最後の〆の手打ちが一つの音にまとまることに参会者が気を遣うのも、なんだかガッテン。

未来は、全員で作っていく。
ひょっとしたら、トップダウンより、ボトムアップが得意という原風景にはこんなことがあるのかも? (^^ゞ

日本のマネジメント思想は、なんとも「奥深い」….。(G)

玄間千映子(げんま ちえこ)