ネット社会の成熟が「国の豊かさ」を決める

松本 徹三

中村伊知哉さんの7月14日付のアゴラの記事「日本のネットコミュニケーションはクールか」を大変面白く読ませて頂いた。流石に長年この分野の研究をしてこられた中村先生だけに、ポイントがよく網羅されていると思った。

この記事の中には、日本人がTwitter好きなのは、その匿名性故であり、普通の生活ではなかなか言えない「本音」が、匿名故に言えるからではないだろうかという指摘があるが、この指摘は当たっていると思う。日本の社会は上下関係にうるさいし、「空気を読まない」発言をすれば居心地が悪くなる。勢い、多くの人たちが「思っている事を自由に言う」事を差し控えるようになっているのだろう。


しかし、こうなると、普段は檻の中に閉じ込められている動物が突然檻の外に出たようなもので、檻の外でのルールが分からない(或いは関心がない)故に、やたらに攻撃的になる。いや、別に本人は攻撃しているつもりはないのかもしれないが、相手を不快にしたり怒らせたりするのは日常茶飯事になる。そうなると罵詈雑言の連鎖になり、こういう事を面白がる人たちは寄ってくるが、普通の良識的な人たちは遠ざかっていく。

実は、こういう状況は大きな問題であり、何とかして是正すべき事だと私は思っている。少し大袈裟に聞こえるかもしれないが、匿名の議論が活発に、且つ建設的に行われるようになる事が、日本の民主主義を成熟させていくのに大きく貢献するだろうと、私は本気で考えているからだ。実社会のルール(習慣)を変えて、誰でもが自由にものを言えるようにしようとしても一朝一夕には行かないが、新しく生まれつつあるネットの世界に妥当なルールを根付かせる事は、やり方によっては可能かも知れないと、少なくとも私は本気で思っている。

小松左京のSFの短編作に、或る日突然全ての大人たちがいなくなり、子供たちだけが取り残される話がある。実は長い間人間を「飼育」してきた宇宙の彼方の超人たちが、「大人と子供を隔離して飼育する」事を思いついた為に起こった事だったのだが、大人のいない世界に残された子供たちは何とか自分たちだけでやっていかねばならなくなる。最初はジャイアンのようなガキ大将が支配する暴力的な社会になるが、徐々に知恵と才覚を持った子供たちに支配権が移っていくという話になっている。

子供たちの世界では、大人が関与せずに放っておけば、人間の生まれついての性格である「残酷さ」が随所に出てくる。これが「イジメ」である。原始人たちが「群れ」として生き残る為には、「同質化」と「間引き」が必要だった為に、こういう性格が徐々に遺伝子の中に組み込まれていったのであろう。しかし、現在の社会ではこのような事は最早必要ではないし、「社会の個々の構成員の平均的な幸福度を向上させる」事が必要だという認識が一般化している。だから、大人たちは、自分たちの社会の中でも、子供たちの中でも、「イジメ」やそれに類似した事が公然と行われないように、それなりに色々な努力をしているのだと思う。

同様の努力は当然ネット社会の中でもなされなければならない。特に重要なのは、これからもますます加速していく「子供たちのネット利用」の中での「健全化の努力」だろう。既に多くの子供たちが、Lineに代表されるような仲間同士のメールの世界から離れられなくなってきており、多くの親たちが心配し始めている。メール上でごく普通に発せられる「うざい」「死ね」などの言葉や、一人に的を絞った多勢による集中攻撃が、子供たちの自殺に繋がっているという由々しい事態も既に起こっているのだ。

少し横道に外れてしまったが、今回の記事は「ネット上での子供たちのイジメを如何にして根絶するか」という問題がテーマではない(これは次回に譲る)。「一般人が、ネットを積極的且つ建設的に利用するようになれば、日本は良い国(豊かな国)になる」というのがテーマだ。そこに話を戻そう。

「国の豊かさ」という言葉は曖昧で、定義も定かではないが、物質的には「GDP」が一応の指標であり、これに「民主主義の成熟」や「精神文化の成熟」などが加えられるのではないだろうか? つまり、国民一人一人が頭で考えている事の平均値が「論理的且つ道義的と見做される一定レベルをクリアしている」事が最も必要であるような気がする(そうでなければGDPも増えない)。

国民が「論理的且つ道義的」に考えなくなると、自らの行動が引き起こす問題を予測出来なくなり、国内では社会的な摩擦が激しくなり、外国との間では紛争が絶えなくなる。「国内での暴動」や「外国との戦争」は、経済的に大きな打撃をもたらし、当然の帰結として、国民は豊かでなくなる。現在の民主主義の理念では、国民一人一人はそれぞれに全く平等な一票を持っているので、国民の意識の平均値が上がらないと、このリスクが増える。

我々は、その典型的な失敗例を、既に昭和初期の歴史の中に見ている。日本が対中戦争の泥沼にはまり、遂には米英との全面戦争に踏み込まざるを得なくなったのは、「論理的且つ道義的な思考」が平均的な国民の頭から何時の間にかなくなってしまったからだ。

松岡外相が、日本を破滅させた日独伊三国同盟の立役者となったのは、国際連盟への残留工作に失敗して失意のうちに帰国した彼を迎えた「国民の意外な熱狂的歓迎」故だった。それがなければ、彼は平和主義者だったのだ。一般的に「好戦的」だったと見られている陸軍の上層部も、「米英との戦争の難しさ」については一般国民よりははるかに深く理解していた。彼等に「道義的思考」があったかどうかは分からないが、少なくとも「論理的思考」はあったのだ。

残念ながら、「政治家」とは「大衆に迎合する」職業だ(北村隆司さんの7月19日付のアゴラの記事にあった「先進国では政治が世論を作る」は幻想だと思う)。そして、昭和初期にこの「大衆」を焚き付けたのがマスコミだった。マスコミというものは、元々は「ジャーナリストとしての使命感」をベースとして生まれるのだが、基本的に営利事業である為、段々と「多くの人に買って貰える」即ち「多くの人が読みたがる」記事を競って書くようになる。そうなると、社会のムードはスパイラル状に一気に一定方向に加速される。

もし日本が過去の過ちを繰り返したくなければ、この事を良く考え、マスコミの影響力を減殺する事が必要だ。そして、国民の頭を、少しでも「論理的且つ道義的な思考」へと誘導する何等かの仕組みを構築する必要がある。個々の国民自身も、自分の将来を惨めにする結果を招くかも知れないものは、実は自分自身の心に随時去来する「感情」の中にある事を理解し、これと戦う習慣を身につける必要がある。

さて、ここで威力を発揮する可能性を秘めているのが「ネット社会の到来」であると私は思っている。

ネットで国民に語りかける人たちは、「自分の記事が売れる」事をそれほど意識しないで済む。新聞と比べると伝達コストは圧倒的に低いので、「数を売る為に平均的な読者に迎合する」必要はないからだ。折角書いた原稿をデスクで「没」にされるリスクもないし、「社の編集方針に合わない」という理由で左遷される恐れもない。個々の読者の興味の濃淡にあわせる為に「概要」と「詳細資料」を分ける事も可能だから、あまり紙数を気にする必要もない。

何よりも優れているのはネットの持つ「双方向性」だ。どんな人でも、書かれている事に対して、実名でも匿名でコメントを出すことが出来るし、論争を挑む事も出来る。良いコーディネーター(編集者)を持ったサイトなら、玉石を選り分けて、テーマごとに、読みやすく、公正で且つ建設的な「議論のスレッド」を構築していく事が出来るだろう。現在の日本人の殆どに、「物事の両面を見る前に自分のスタンスを決めてしまい、立場の違う人の議論に対しては始めから否定的になる」傾向があるので、この事は極めて重要だ。

勿論、こう言うと、理想の姿からは程遠い現時点での「質の低い(前述の『子供のイジメ』レベルの)ネット世界の現実」について言い立てて、私の言う事などは「夢物語」に過ぎないと反論する人たちは多いだろう。いや、それどころか、「アラブの春」等でも実証されたように、ネットはむしろ「単純で扇動的なメッセージ」に適しているので、「『論理的且つ道義的』とは裏腹の、後先を構わぬ「短絡的且つ感情的」な行動へと、一気に大衆を駆り立てる可能性が高い」と考える人たちの方が圧倒的に多いかもしれない。

その事を私は否定しない。いや、だからこそ、ネット社会をレセ・フェール状況にしておく事は危険だとも考えている。ネット社会の急速な拡大は最早「既成事実」と考えるべきであり、「論理的且つ道義的な思考」をする人たちが、もしこれから逃げようとするなら、それは最悪の選択肢だ。日本が「成熟したネット社会」を持つか「未成熟のネット社会」しか持てないかでは、その差はあまりに大きいからだ。

「誰でもが匿名で無責任にわめき散らすようなネット社会では、どうせ悪貨が良貨を駆逐する」と早々と結論づけ、投げやりになってはならない。何とかして「良貨」を増やして、「悪貨」が徐々に駆逐されるように努力せねばならない。民主主義に賭けてしまった我々が自分の将来を守る為には、もはやそれしか道はないと考えるべきだ。

当面は、例えば「ネトウヨの一人よがりで危険な議論」や「事実と乖離した放射脳的な宣伝活動」だけに的を絞って、こういったものを丁寧に潰していくだけでも十分に意味があると私は思っている。これをやろうとすれば、かなりの忍耐力が必要となろうし、祭られたら祭り返す位の気迫も必要となろうが、日本を真に「豊かな国」にする為には、その程度の覚悟は当然必要なのだ。

そういう考えもあって、私は自分自身のブログやツイッターに対するコメントや反論には、どんな質の低いものに対しても、極力丁寧に対応する事にしている。「よくそんな暇がありますねえ」と呆れられる事も屢々だが、私には一種の使命感がある。もし、何も反論しなかったら、筋違いの事を言っている人たちも、それで「私をやり込めた」と錯覚して、自分の頭の中だけで盛り上がってしまうからだ。時折「アホ」とか「バカ」とかいう言葉を敢えて使うのも、一人でも多くの人たちに若干は傷ついて貰い、考え直して欲しいからだ。蟷螂の斧かもしれないが、出来る事からやっていくしかない。