父子関係を争った「DNA型鑑定」最高裁判決の整合性を問う --- 岡田 克敏

アゴラ

DNA型鑑定で血縁がないことが証明された場合でも法律上の父子関係を認めるかどうかが争われた裁判で、最高裁は7月17日、父子関係を認める判決を言い渡しました。父子関係について、DNA型鑑定による「事実」より民法の規定(嫡出推定)による「形式」を優先する判断を示したわけです。このような問題を心配しなければならない方はさほど多くないと思われますが、それはともかく、この判決には興味深いものがあります。

嫡出推定とは「妻が結婚中に妊娠した子は夫の子と推定する」という民法の規定のことですが、過去の判例には例外が認められていたようです。以下、産経の記事(7/17)からの抜粋です。


『最高裁は昭和44年5月、夫と事実上離婚して3年近く経過した後に母が産んだ子について「嫡出推定を受けない」と判断。(中略)また、最高裁は平成12年3月、法律上の父が子を相手取り親子関係不存在確認を求めた訴訟で、「その家庭が崩壊している」という事情だけでは嫡出推定が及ばないとはいえない、と判断。推定を覆すには、一方が遠隔地に居住していて夫婦関係がなかった、などの明白な事情が必要とした』

つまり過去の判例では夫婦が交接を行えないことが物理的に明らかな場合は嫡出推定の例外としたわけです。推定による形式的な父子関係より、生物学的な父子関係という「事実」を優先したものと理解できます。考えてみれば、推定という不確かなものより事実を優先するのはあたりまえで、推定として扱うのは他に確認の方法がないときにやむを得ず行う場合だけです。

ところが今回の判断は逆に事実より推定を優先させるというもので、過去の判断との論理的な整合性が疑われ、また常識的にも理解し難いものです。しかし、論理的整合性(法的安定性)も大切ですが、もっと大切なことがあります。

「血縁関係のある父と生活しているのに、法律上の父が別にいる状態が継続するのは自然といえるだろうか」
「事案の解決の具体的妥当性は裁判の生命であり、本件のようなケースで一般的、抽象的な法的安定性の維持を優先させることがよいとは思えない」

これは嫡出推定による父子関係を取り消すべきだとした金築誠志裁判官の反対意見ですが、私には十分納得のいくものです。また白木勇裁判長も鑑定技術の進歩は民法制定時に想定できなかった事態で「民法の仕組みと、真実の父子の血縁関係を戸籍にも反映させたいと願う人情を調和させることが必要」との意見であったとされます。

また父子関係の認定に統一した基準を決める必要性があったのか、ケースバイケースの方がより適切な対応が可能であったのではないか、という疑問が残ります。

5名中、裁判官出身の2名が反対したわけですが、それに対して賛成した弁護士出身の山浦善樹裁判官は「DNAは人間の尊厳に係る重要な情報であり、決して乱用してはならない」、「DNA型鑑定によって法律上の父子関係が突然否定されるような判断を示せば、親子関係の安定を破壊することになる」と述べたそうです。

DNAは人間の尊厳に係る情報だから裁判の証拠資料などという俗なものに使ってはならない、というように私には聞こえます。なぜ尊厳に係るのか、そして尊厳に係る情報はどうして裁判に使ってはならないのか、凡人には理解できません。後半の発言、DNA型鑑定を認めれば親子関係の安定が破壊される、というのもおかしいです。DNA型鑑定の結果だけでも親子関係の安定を破壊するのに十分です。それより裁判所がDNA型鑑定による事実から目を背けるという非科学的な態度の方が問題です。

北海道の訴訟は離婚が成立、関西の訴訟の夫婦は別居中で、いずれも子は生物学上の父と住んでいるということなので、この判決は生物学上の、そして現在の父子関係を否定するものです。両親には様々な事情があるでしょうが、子供に罪はなく、子供の利益に最大の配慮をするのが道理だ思いますが、判決はそうではありません。

論理的整合性に問題があるだけでなく、解決の具体的妥当性をも欠いた出来の悪い判決と、傾聴に値する反対意見という、まことに奇妙な裁判でありました。民主的な手続きである多数決とは言っても、結果は多数を占める人間の見識次第ということでしょうか。

余談ですが、賛成は弁護士出身の山浦善樹裁判官と行政官出身の桜井龍子裁判官(あと1名は不明)、反対は前述の裁判官出身のお二人です。この裁判で見る限り、より市民感覚に優れているのは裁判官出身者の方であり、他業種出身の方がより形式的な判断に傾いている印象を受けます。市民感覚の導入を目指した裁判員制度は大丈夫でしょうか。

岡田 克敏