なぜ、企業イメージは膨張するのか?『リクルートという幻想』

常見 陽平
リクルートという幻想
常見 陽平
中央公論新社
2014-09-09



満を持して、この本を発表する。『リクルートという幻想』である。時は、きた。それだけだ。本の紹介をしつつ、問題意識を共有したい。だから、リクルートは、いや、日本企業は、ずれているのだ。


新卒で入社して8年半勤務した企業であり、その後はあるときは取引先として、あるときは考察対象として向き合ってきた企業である。一言では言えない、喜怒哀楽が入り乱れたような感情を抱いている。

それだけではない。

元社員ではあるが、この企業に対して、ずっと疑問を抱き続けてきた。人材系、IT系のベンチャー企業を中心に、戦略と組織のお手本とされることもよくあるわけで、例えば、サイバーエージェントの人事担当の取締役、曽山哲人氏の一連の書籍などではリクルートからの影響を感じざるを得ない部分があるわけなのだが・・・。

それほど、参考にするべき企業なのか?

そんな疑問をずっと抱いていたわけだ。

よくOB・OGの「活躍」が取り上げられ「人材輩出企業」と言われるが、果たしてそうなのか。

なぜ、リクルートOB・OGは書籍を発表し、「リクルート本」というジャンルが成立しているのか?

『ゼクシィ』『HotPepper』『R25』などが新規事業提案コンテストから生まれ「新規事業創造企業」として認識されているが、果たして本当なのだろうか。

創業者である江副浩正氏の「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」などの「リクルート語録」が知られるが、それは本当に機能しているのか。元社員以外の人も礼賛し、それこそ先日もNAVERまとめで拡散したのだが、空気読まず言うと、それはそんなに素晴らしい言葉なのか。

「成長」という言葉が連呼されるが、「膨張」ではないのか。

歴代経営者の誰が優れていて、誰がダメだったのだろうか。

なぜ、リクルートのCMは賛否を呼ぶのか。

これらの謎について、丁寧に検証している。

これらの答はすべて、書籍に書いたのだが、いくつかの点について、手短に結論を言おう。

「人材輩出企業」という点については、なんせ、若くして退職する人の絶対数が多いわけだ。採用が上手くいっている、独立をバックアップする「リクルート金融」「リクルート経済圏」とも言えるネットワークを持っていること、なんせセルフ・ブランディングが上手いことなども理由である。そして、「輩出」ではなく「流出」「排出」の要素もある。

「新規事業創造企業」ということについては、「江副モデル」と言われるいまだに江副浩正氏がつくったビジネスモデルに依存しており、「新商品」はあるが「新規事業」はないという状態が続いているようにみえる。新規事業も多いが、撤退した事業も多い。また、自ら立ち上げるのではなく、買収、資本参加など、お金でなんとかしようとする動きが中心になっている。

「リクルート語録」については、魂を感じつつも、ポエムのようなものである。また、一部は明らかにドラッガーや、松下幸之助、本田宗一郎などの受け売りである。江副氏の著書などを見ても、影響を公言している。


リクルートのCMが「気持ち悪い」とすら感じる点については、何度もブログなどで書いてきたが、何度も、何度もYouTubeで再生し、大手広告代理店の方のご意見などを頂きつつ考えて見えたのは、そもそも、描かれる世界観が古いからなのである。


人々は情報に関しての自由、ライフスタイルに関する多様性と可能性を、少なくとも1980年代よりは獲得している(あるいは、獲得した気になっている)のであり、いまやそれに疲れてさえいる。

リクルート関係者の、しかもアラフィフくらいの世代で語りぐさになっている「情報が人間を熱くする。」という企業広告キャンペーンがある。1987年からポスターなどの掲示が始まり、1988年にCMが流れたのだが、リクルート事件の関係で3日で放送が打ち切りになったというものだ。

ジョン・F・ケネディによるアポロ計画の演説、ロケットの打ち上げ、宇宙飛行士の月面歩行といったニュース映像を使ったものだった。BGMは、Eaglesの“Desperado”だった。邦題は「ならず者」だった。美しいメロディの曲で内容は人生の多様性を示すものだったが、タイトルがリクルート事件を予感させていたとも言える。偶然ではあるが、苦笑せざるを得ないエピソードだ。

ナレーションは「いつも人々は、テクノロジーという武器と、創造力という勇気で出発していく」「見えないものを見たい。聞こえないものを聞きたい。思い、果てしなく」「いつの時代も情報が人を熱くしてきたと思う。人と人との間にネットワーキング。リクルート」だった。リクルートのサービスを提供している分野、企業姿勢を表現したものだと言えるだろう。


ただ、同社の関係者の世界観は、この時代で止まっていないかと思ってしまったのだ。カンヌでブロンズをとった、リクルートポイントのCM「すべての人生が、すばらしい」にしても、このCMで感動したという人は、相当におめでたい人で、内容をよく見ると、自由、多様性、可能性を示していそうで、実は既存のモデルを示しているだけだ。そして、ここで提示される人生の多様性なるものは、別にリクルートさんにお願いしなくても実現できる。人々は、リクルート「による」自由ではなく、リクルート「からの」自由を求めていないか。

「リクルートポイント、始まる」というメッセージで終わるのだが、そうか、まだ始まっていなかったのかとすら思えてしまう。

この時代錯誤感を、なんとか感動的な(ように、人によっては見える)CMでなんとかしようという風に見えてしまう。

よく同社は自分で焚き付けて火をつけ、ポンプで水をかけて消す、「マッチポンプ」の象徴として批判されることがあるが、そのマッチポンプがバレバレになってしまっている、以前より機能しなくなっている。それが同社が直面している課題である。

インターネットの時代は個人が主役(少なくとも、だと思わせる)だというのが鍵である。情報広告に課金する同社のモデルはネットの時代との親和性という点でどうだろうか。

というわけで、このように、同社のジレンマを描いた書籍である。いや、それはリクルートだけでなく、日本企業とその社員がいかにまだ昭和への憧憬、幻想を抱きつつ、グローバル化、IT化という波に対して仕掛けているようで飲み込まれているような。そんな姿を明らかにしている。

2012年の秋に構想が始まった頃から最近までは怒りと愛に満ちた気持ちで書いていた。しかし、書き上げる頃には「哀」や「同情」に近い気持ちになってしまった。時代とのズレ、遅れを上場による資金調達という力技でなんとかしようとしているようにさえ見えた。


発表は9月10日である。9月3日(水)の11時より、記者会見を行う。ニコ生でも中継する。

単なるリクルート批評を超えて、2010年代の日本企業のジレンマを描いた本なので期待して欲しい。

破壊なくして創造なし。幻想を粉砕しつつ、未来を考えるのだ。