「史観」いろいろ

松本 徹三

かつての大日本帝国がやった色々な事を殊更に悪く言う人たちの事を「自虐史観」に染まった人というのが一時期定着していたが、最近はそれを「贖罪史観」と呼ぶ人が多くなった。また一方では、同じ傾向をもった人たちを「東京裁判史観」に毒された人たちと呼ぶ人もいる。しかし、私はその何れにも大きな違和感を持つ。


先ず「自虐」だが、これはほぼ精神病理学の言葉で、そんな奇妙な人は滅多にいるものではない。

「贖罪」の場合は、極めて良心的な人という意味になるが、先の大戦時の日本の行いを、本当にいたたまれない程に「申し訳なかった」と思うような人なら、世界中の戦争一般についても、そこで行われた「原爆投下」のよう目を覆いたくなるような非人間的な行いについても、激しく憤っているのでなければ辻褄が合わない。それなら、韓国やインドネシア迄出向いて日本政府を告訴する人たちを募る前に、米国へ行って断食する等の行動があって然るべきだっただろう。

「東京裁判史観」という言葉も極めて奇妙な言葉だ。東京裁判のような戦勝国による裁判が、裁判という形式の「敗者に対する仕置き」(一つの戦勝の儀式)に過ぎない事ぐらいは、誰にでも分かっている事で、これが「猿芝居」とか「茶番劇」とか呼ばれるのも至極当然の事だろうが、ここで前提とされた事柄を「史観」とまで呼ぶのは大袈裟過ぎると思う。かつての日本の行いを「間違いだった」と断ずる人たちの殆どは、私自身を含め、別に東京裁判の判決に影響されてそうなった訳ではなく、自分で考えてそういう結論になったのだ。

そもそも「史観」とは何だろうか? それは「過去の歴史的な事実の中に、一つの本質的な流れを見出し、それに一定の評価を下す」事ではないかと思う。中国や韓国がよく使う「歴史認識」という言葉も、これと同義と考えてよいだろう。

さて、敗戦前の日本には「皇国史観」というものがあり、学校でもこれに基づいて全ての教育が行われた。少しでもこれと矛盾するような事を言ったら、「非国民」と罵られ、まともな社会生活を送る事さえもが難しくなるような状況だった。ここで語られている歴史は、「天から舞い降りた天照大神の末裔である万世一系の天皇が統治する国が日本であり、やがてその神国日本(天皇陛下)が、その鏡のような純粋さ故に、世界(八紘)を一つ(一宇)に包み込むようになるだろう」という、相当に独善的で全く科学的とは言えない代物だったが、多くの人々はそれを信じ、或いは信じたふりをしていた。

敗戦によってこの「皇国史観」は完全に否定されたが、それに代わる「日本人が一様に認める史観」なるものは未だ存在しない。個々の歴史的事実については、「南京での一般人の殺戮がどの程度の規模だったのか」というような「未だによく分からない事」も若干は存在するが、概ねは同一の理解に達している。しかし、そのような個々の歴史的な事象に対する「評価(善悪の判断を含む)」は、人によって大きく異なっているのが実情だ。

世界的に見ると、古代ギリシャのヘロドトスにはヘロドトスの史観があり、キリスト教の世界にはキリスト教の教理に基づく史観があり、イスラム教の世界にはイスラム教の教理に基づく史観がある。また、各時代に、各国で、数多くの歴史学者がそれぞれの史観を語っている。中国においては、易姓改革によって新王朝が生まれると、真っ先にその前の時代の歴史が編纂されるのが慣例化していた。

近代において特筆すべきは、カール・マルクスの手によって、それ迄の史観とは全く異なった「唯物史観」なるものが発表され、一時期世界中で大きな影響力を持った事だ。唯物史観の基礎である「唯物弁証法」は、基本的にヘーゲル哲学の弁証法(矛盾から変化が起こる)を継承していると見做されており、一言で言えば、下記のようなものである。

「社会は、その生産力により必然的に一定の生産関係に入る。生産力が何らかの要因で発展すると、従来の生産関係との間に矛盾が生じ、その矛盾が突き動かす力により生産関係が変化する。具体的には、これが階級闘争を生み出し、それが革命への原動力となって、資本主義社会は社会主義社会へ、そして最終的には共産主義社会へと移行するという事だ。これらの事は個々の人間の意志とは関係なく、歴史的な必然として起こる。」

それまで日本人が慣れ親しんできた「皇国史観」は、始めからどうも嘘っぽく、戦後は嘘だった事がバレてしまったが、これに代わって日本の知識階級や若い人たちが飛びついたのは、米国が持ち込んだ「自由経済(資本主義)の理念」よりも、むしろこの「唯物史観」だった。

その理由は、

  1. 資本家が労働者を搾取して貧富の差が拡大する社会よりも、貧富の差のない社会のほうが正義に合致する。
  2. 無駄が多く、屢々不況や倒産をもたらす自由市場主義(資本主義)より、計画経済を行う社会主義社会のほうが合理的で、経済的にも豊かになれる。
  3. 資本主義体制下では、各国は市場を奪い合い、必然的に帝国主義戦争を引き起こすが、世界各国で労働者階級が生産手段を握り、国際的に団結すれば、世界平和が実現出来る。

という事であり、これには大いに説得力があった。

こうなると、彼等の前に立ちふさがる敵は、「東西冷戦の中で、日本を自陣営の中に取り込もうとする米国とその追従者たち」と「日本の過去の栄光を少しでも取り戻そうとする復古主義者たち」の二つのグループだったが、「日米安保」「再軍備」「産業界との協調(財界との結託)」の三点でこの両者は共同歩調を取ったので、この両者を併せて「保守反動」と彼等は呼んだ。

(ちなみに、彼等が標榜した「非武装中立」は、決して「それが可能だ」という前提に立った「お花畑的な思考」によるものではなく、「もし不可能なら東側陣営に立てばよい」という現実的なものだったと私は見ている)

しかし、その後の推移を見れば、社会主義革命がもたらしたものは、結局は「経済の著しい停滞」と「独裁体制による庶民生活の圧迫」以外の何者でもなかった事が分かった。要するに、理想に燃えた社会主義者たちも、残念ながら「一所懸命働けば豊かになれると考えれば人間は働き、そうでなければ誰も本気になって働かない」という現実を理解していなかったし、「人間は本来利己的であり、権力を握った者は必ず腐敗する」という事も理解していなかったという事だった。こうして、壮大な実験は失敗に終わり、ソ連と東欧の社会主義国家群は崩壊し、中国は一党独裁体制を保ちつつも、「改革開放経済」へとまっしぐらに進みつつある。

さて、ここで、日本のかつての社会主義者たち(2013年8月5日付のアゴラの記事で私が語っている「進歩的文化人と呼ばれる人たち」も、ここに一括りしてしまってよいと思う)はどのように身を処そうとしているのであろうか?

計画経済の不効率さは既に露呈しており、東西冷戦は既に終わってしまっているので、「社会主義体制への移行」を主張しても誰もついてこない。「反米」も現時点ではあまり人を引きつけそうには思えない。しかし、「過去の自分たちの考えを全面的に否定して、その不明を詫びる」というような潔さは彼等にはなさそうだ。それ故に彼等は、「護憲(防衛体制の充実反対)」や「環境保全(原発全廃)」などに議論と活動の対象を移そうとしている(「経済発展より弱者保護」という従来からの軸足は勿論変わらないが)。

いわゆる「史観」の問題は、この流れの中の一つであると考えると理解しやすい。即ち、前述の二つの敵のうちの一つ「過去の栄光を取り戻したい復古主義者たち」との戦いの正統性はなお残っているからだ。例えば、私自身も、「護憲」や「原発全廃」には組さないし、「従軍慰安婦問題で韓国に賠償せよ」等というような愚かな議論には激しく反発しているが、かつての「国家主義」の一部復活を願うような右派の動きには未だ警戒心を解いていない。彼等の考えは、戦前の多くの日本人がそうだったように、独善的で、誠実さに欠け、世界の大勢から日本を孤立させる恐れがあるからだ。

では、そういう私が依って立つ「史観」は、どう呼べばよいのだろうか? いくら考えても適当な言葉は見当たらないが、「そもそも固定した『史観』などというものは、持たないほうがよいのではないか」という「開き直り」も出来ると思っている。

一言で言うなら、「全ての史実は徹底的に検証し、分析によってその本質を焙り出す。些かの嘘も誇張も許さない。その上で、そのそれぞれをどう評価するかは、色々な人たちに色々な考え方がある事にもよく配慮しながら、一つ一つ公正無私に徹して考えていく」という事だけでよいのではないだろうか?

ちなみに、慰安婦問題で日本という国に大きな災厄をもたらした朝日新聞の何人かの記者や、一握りの「人権派」と呼ばれる弁護士たちの考えは、私の立場とは大幅に違う事は明らかだが、彼等の「史観」はどう呼べばよいのだろうか? 彼等はそもそも過去の大日本帝国を自分たちの国だったとは意識していないのだから、決して「自虐的」ではない。また、彼等が、大変な正義感に燃えているとか、聖人に近いレベルの「贖罪意識」を持っているとも信じ難い。では、彼等の意図は一体どう解釈すればよいのだろうか?

私の考えは、先ず、彼等には「史観」等という大それたものはなかったという事だ。弁護士たちについては「売名」と「商売」が大きな動機の一つであった事はほぼ間違いないと思う。記者たちについても、若干はそういうところもあっただろうが、矢張り一番大きいのは、「国家主義思想の復活」に対するアンチテーゼとして、無理にでも何かの拠り所を作り出したかったのではないかと思う。その為に「旧日本軍を悪鬼のような存在として描く」安直な作り話に乗ってしまい、それがどんどん増殖を続けてしまったのではないだろうか?

ちなみに、「史観」に関連するような問題について私がTwitter等でコメントすると、「対中戦争は明らかに侵略戦争」とか「首相の靖国参拝反対」とかいうところでは、ネトウヨが私を「反日」と決め付けて攻撃してくるし、「慰安婦問題を捏造した朝日新聞は償いをせよ」と言えば、サヨクがしつこく絡んでくる。「中庸というものの価値」をアゴラで訴えてみても、誰も「いいね」とは言ってくれない。どうも殆どの日本人は、「右か左かを大雑把に切り分けてレッテルを貼り、そのレッテルに対して攻撃する」というワンパターンしか能がないようだ。国際社会の中で日本が「普通の国」としての市民権を得、相応の敬意を受ける事を望む私としては、何とも心許ない限りだ。