実体経済の活動は、キャッシュフローを生み出す。逆に、実体経済の活動からのみ、キャッシュフローは創出される。その創造の現場にあるものが事業である。いかなる投資対象も、この原点にある事業から派生したものである。
投資とは、原点にある事業キャッシュフローの創出への参画である。具体的な投資対象は、株式といい債券といい、全て、原キャッシュフローの分配の仕組みである。故に、投資対象の価値とは、分配されるキャッシュフローの現在価値である。
価値は、将来についての合理的な仮定と推計手法を用いて、計測されるものである。故に、事実ではなくて、意見である。ところが、価値とは別に、価格がある。価格は、市場において客観的に形成されるものであり、事実である。
経済学の理論は、価格と価値は一致すると主張する。なぜなら、価格形成過程において、社会の平均的価値判断が織り込まれるからである。この価値は、個々の投資家の価値判断ではなく、社会全体の価値判断である。こうして、価格の社会性が価格の正当性の根拠となる。
しかし、現実には、理論が想定する完全市場は存在しない。価格は価値の方向へ動くとしても、常時一致しているわけではない。逆に、価格形成過程のなかでは、価値と価格は常に乖離している。しかも、かなり長い時間、かなり大きな幅で、価格と価値は乖離し得るのだ。
原理的には、価値分析がしっかりできている限り、価格と価値の乖離は、理論的に非効率であるが故にこそ、有利な収益機会だ。価格変動は機会を作るが、敢えて、機会的行動をしないならば、無視し得るものである。
しかし、現実には、価格変動は、無視しにくい。どうしても、価格変動に基づく投資行動を誘発してしまう。下がれば売る、上がれば買うという投資家の行動は、価格変動を累積的に増幅させて、資本市場に大きな影響を与え、経済・産業活動に必要な資金の流れを阻害する場合がある。その結果として、実体経済に影響を与えてしまう。
逆に、投資家が本源的な価値分析に基づく信念をもった投資をしている限り、下がれば買う、上がれば売るという行動を伴うので、資本市場の混乱は、防げるはずであるし、少なくとも、混乱を一時的な問題に留めることができるはずなのである。しかし、現実には、投資家の行動は、そのように合理的ではない。なぜか。
一つは、金融機関の資本規制である。これは、ある程度は、仕方ない。一時的な価格の下落から生じる評価損も、資本の控除項目になる限り、資本の減少が資産の売却を誘発する構造自体を、変えようがない。もっとも、現在、金融規制当局も、この構造問題については、何らかの対策を考えているのだとは思うが。
もう一つは、理論の誤用である。理論の誤った適用が普及したことにより、今や、合理的判断は、事実としての価格に基づくべきとされている。統計的手法を用いた価格変動分析が投資の主流となり、伝統的な価値分析は廃れてしまった。もはや、誰も投資判断の軸となる価値判断をもっていないのである。
理論の前提は、価値判断に基づく売買行動に、価格の正当性の根拠を置いている。ところが、理論の適用は、価格変動に基づく売買行動をもたらしている。従って、価格に価値判断が織り込まれなくなっているので、理論の前提が崩壊し、価格の正当性の根拠は失われているのだ。
そのような原点を失った価格の変動が、さらに新たなる売買行動を誘発するとしたら、それでも、市場は効率的であり、正しいといえるのか。市場は狂っているのではないか。そこに、金融危機の原因が潜む。
森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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