球の表面に中心はない。あるいは、球の表面は、どこでも中心である。地球は球である。だから、地球の表面には、地球の上には、中心はないか、あるいは、どこでもが中心である。
グローバルglobalというが、グローバルはグローブglobeの形容詞形で、グローブとは球のことである。であるから、グローバルには中心がない。
これは、地球儀の軸をはずして、ただの球として、手のひらに載せてみるとよくわかる。日本を中央にして上から眺め、また、ブラジルのサンパウロを中央にして上から眺めれば、それぞれに違う世界の像が得られる。どこを視線の中央に置こうが全く自由だから、地球儀を掌のなかで動かせば、そのつど違う地球の像が得られる。
グローバルと似たような言葉に、インターナショナルinternationalがある。グローバルとインターナショナルとの違いは、少なくとも投資の世界の言葉使いでは、自国を含むかどうかにある。グローバルは地球であるから、もちろん自国を含んだ世界である。一方、インターナショナルは、自国以外の外国を指す。
グローバルというときは、特定の国を中心とすることなく、全ての国が地球の上で相対化される。ところが、インターナショナルというときには、自国以外を意味するのだから、自国に中心がある。自国を中心して、他の国を相対化する視点である。
グローバルが立体の地球儀ならば、インターナショナルは平面の世界地図のようなものである。日本で売られている世界地図は、日本を中心にして描かれている。日本に限らず、どの国でも、世界地図を作るときは、自国を中心にして描くであろう。
実は、中東だとか極東だとかいういい方は、西欧(というか、おそらくは大英帝国)を中心にして世界地図を描いたときに初めて意味をもつものですある。我々日本人に馴染みの世界地図では、日本は極東ではない。極東は、アメリカ東海岸である。英国(あるいは西欧)を中心にしてこそ、日本が極東であり、米国西海岸が西の果てになるのだ。アメリカ大陸「発見」というのと同じ根をもつ、西欧中心主義の歴史的残滓である。
今、グローバルかインターナショナルかは、資産の分類とその配分方法の見直しの中で、大きな論点になっている。例えば、株式を例にとれば、従来は、日本株式と外国株式(日本以外の外国の株式)に分けていたものを、グローバル株式(日本も含んだ全世界の株式)に統合するなどの検討である。
日本では、日本株式と外国(日本以外の外国)株式の二つに分ける。同じことは、どの国でも行われている。米国では、米国株式と外国(米国以外の外国)株式の二つに分ける。つまり、国の数だけ、それぞれの国に応じて、内容の異なる外国、即ちインターナショナルができる。
ここが、グローバルとインターナショナルの本質的な差である。グローバルは、地球という一つのものしかない。ところが、インターナショナルは、国の数だけできる。インターナショナルは、実は、少しも国際的ではなくて、自国の裏返しにすぎないのである。ここに、外国株式からグローバル株式への転換を検討する理由があるのである。
森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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