人類の“殺人へのDNA”を解明せよ --- 長谷川 良

アゴラ

日本からのニュースで最近最も驚いた記事は、名古屋大学の女学生(19)が「人を殺してみたかった」という動機から77歳の女性を殺した、という事件だ。この「人を殺してみたかった」という動機による殺人事件は過去にも数件あった。その度に、殺人者の特殊な生い立ち、学校や職場での生活などについて詳細に報じられたが、「なぜ人を殺したいのか」を完全に解明できた事件はほとんどなかった。


殺人事件を担当する捜査官は殺人が起きた現場検証に力を注ぐという。殺人現場に解決の糸口が残されているかもしれないからだ。そこで今回、名大女学生殺人事件の解明には直接役に立たないが、人類最初の殺人事件をもう一度、振り返ってみた。

旧約聖書「創世記」を読むと、人類始祖のアダムとエバは、神から「善悪を知る木からは取って食べるな」といわれた果実を食べた結果、エデンの園から追放された。アダムとエバはその後、家庭を持ち、第1子のカインと第2子アベルが生まれた。長男のカインは土を耕す者に、アベルは羊を飼う者に成長した時、神は彼らに供え物を捧げるように命じた。そして神はなぜかカインの供え物、地の産物を顧みられず、アベルの供え物、群れのういごと肥えたものを受け取られた、と記述されている。

神に供え物を取ってもらったアベルの喜ぶ姿を見たカインの心にはアベルへの抑えることができない妬みと共に、神への恨みが湧いてきたはずだ。聖書を読むと、カインの心の動きを知った神は、「なぜあなたは憤るのか、なぜ顔を伏せるのか。正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています」と警告を発している。にもかかわらず、カインはアベルを殺してしまった。人類最初の殺人事件となった。

賢明な読者ならば、「神がカインの供え物を受け取っていたら、人類最初の殺人事件は生じなかったはずだ。神こそ殺人事件を挑発した責任者だ」と指摘されるだろう。この指摘は至極当然だ。興味深い点は、聖書の中では、神は常に最初の子ではなく、次子を愛しているのだ。子供が何かしたというのではなく、出産直後から、“愛される者”(第2子)と“愛されない者”(第1子)とに区別して接しているのだ。なぜか。

「神の愛」の不平等さを理由に神から離れていった人はいるだろう。愛の神がなぜ、愛する者と愛さない者とに分けるのか。神の愛は本来、慈愛に満ち、寛容に溢れていたのではないか、等々、神への不信と憎悪が人間の心の中に湧き出てきたとしても不思議ではない。

イエスは自身を信じないユダヤ人に向かって、「悪魔の子よ」、「蝮の子よ」と叱咤し、「あなたがたは悪魔の願いどおりを行っている」と述べている。アダムとエバの時代から長い年月が過ぎたが、私たちは今も、愛の問題で対立し、紛争、戦争が繰り広げらている。その意味で、私たちは人類始祖やイエスの時代と余り変わっていないわけだ。

人類は多くの試行錯誤を繰り返しながら、共存できる社会制度、法体制、国際機関を構築してきた。簡単にいえば、一種の社会契約を締結してきた。それを破る人は刑罰に処され、紛争を起こす民族や国には国際社会が制裁を課してきた。しかし、「人を殺してみたかった」という女学生の心の中に潜む“殺人へのDNA”の解明が残されている。そして、「愛の神」がなぜカインの供え物を良しとしなかったかについて、誰もが納得できる説明が不可欠だろう。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年1月31日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。