ハイエクの経済構造改革(1)民主主義政府の構造の修正

高橋 大樹

以前の投稿で、アダム・スミスとカール・メンガーという経済学者の議論を用いて、私たちが「分業と交換に基づく社会への参加」を前提に生活していることを書きました。今回は、1974年にノーベル経済学賞を受賞したフリードリヒ・ハイエクの議論を用いて、現代社会を発展させる方向性と可能性について書きたいと思います。それによって、最近よくいわれる構造改革というものの内容について考えることができればと思っています。


二種類の法(ルール)の識別、政府の二つの機能の区別

ハイエクは自由放任主義者だと言われることがありますが、それは誤解であると考えます。彼はむしろ社会生活のルールとしての「法」が厳格に施行されることを求めており、正しい行為のルールに反している行為が数多くなされている現状を改めなければならないと考えていたように思えます。

ハイエクがいう「ルール」とは、広い意味では私たち個人の行為を無意識に導いているものすべてを指しますが、とくに注目されるのは集団全体の秩序の形成につながるものです。それは動物社会にも見ることができ、例えばハイイロガンの矢形の編隊、バッファローの防衛的な輪、複数の雌ライオンが獲物を雄の方に狩りたてるやり方などの集団的な行動のパターンのなかで、それぞれの場合に一定の秩序が存在することと、各個体を導く行為のルールが存在することを想像すると理解しやすいかもしれません。

人間社会では、集団秩序を形成する行為のルールはまず無意識的な習慣から発展し、知性の成長とともに、後からルールを漸進的に明文化する努力が行なわれるものと考えられます。

多くの人に認められた行為のルールの遵守を確保するためには、社会の一部の成員(政府)にたいしてそれらのルールを施行する(enforce)仕事を委任することが有効であると思われます。また、この「施行されるルール」を「法」と考えることができます。

ハイエクによれば、法はほとんどの場合「正しくない行為を禁止する」という意味で消極的なルールであるといいます。禁止される主な行為としては、他人への強制(coercion)、暴力(violence)、詐欺(fraud)、欺瞞(deception)が挙げられます。強制は、ある人の行動が他者の目的のために他者の意思に奉仕させられることです。暴力は、物理的な強要であり強制のもっとも重大な形態です。詐欺と欺瞞は、人があてにしている事実情報を巧みにごまかすことにより詐欺師が人にしてもらいたいことをさせることです。これらが不正なのは、「まさに考える人、評価する人としての個人をこのように排除し、他人の目的の達成における単なる道具にしてしまうから」であるといえます。

法が「消極的なルール」であることの重要な点は、「どんな特定の行動をとるべきかに関する意思決定の源泉が、法を発する人から行動する人へと移動する」ことにあります。つまり、細かいことはその環境に応じて各自に任せられる、ということです。

ハイエクによれば、社会における強制を最小にする目的のために、不正な行為を防止することに限定して強制力をもちいる権限が政府に委ねられるという制度が発展してきたといいます。より正確にいえば、政府の強制力をもちいる活動は、正しい行為のルールの施行、防衛、その活動の資金調達のための租税徴収に限定されるべきという基本原理が考えられてきたというのです。

正しい行為のルールは、政府の人びとを含む万人に等しく施行されるものでなければなりません。この普遍的なルールのことを、「法律家の法(the lawyer’s law)」または古代ギリシャ人の「ノモス(nomos)」とハイエクは呼びました。実際には、民法や商法や刑法などの私法がこれにあたるものと考えられます。

以上の正しい行為のルールの施行を、「強制装置」としての政府の第一の機能とみなすことができます。

政府の仕事としては、これとは別にもう一つ重要なものが考えられます。それは、主に代価を支払う人びとに受益者を限定できないという理由から、民間の個人や企業がうまくつくりだせないサービスの提供です。保健や衛生サービス、文化施設や公園の運営・管理、道路の建設・維持、個人や企業などの努力を助ける各種統計情報の提供、社会保障の提供、教育と研究などが、その一部の例として挙げられます。つまり、行政サービスの提供です。

政府の行政機関の制御・規制や指揮・監督を行うことは、私たちが立法府と呼ぶ代議員議会の主要な任務とされてきました。行政の特定の機関や役人がなすように求められていることについての指示で構成される法律が、この目的のために必要とされると考えられます。それは主に官僚の手によって計画されるものが立法府によって承認される手続きを踏むもので、行政機関への指示だけでなく、その取引関係にある市民のための規制も叙述するものになると思われます。

この行政の制御・管理・規制のためのルールのことを、「政府(行政)という組織のルール」または(ギリシャ語で)「テシス(thesis)」とハイエクは呼びました。これは正しい行為のルールとは違い、「これこれがなされるべきである」といった積極的な指示の性格をもちます。今日、立法府によって制定される法律の多くはこの行政組織のためのルールであると考えられます。

こうしたルールが必要とされる一つの理由としては、行政組織は市民へのサービス機関でありながら、次回でみる市場経済の規律(民間のビジネスや商売では利潤によって示される効率性の検証)を欠いていることが挙げられます。

以上の行政サービスの提供を、「サービス機関」としての政府の第二の機能とみなすことができます。

「強制」と「サービス」の結合、「交渉」民主主義

今日の立法府は、正しい行為のルールの制定と行政組織のルールの制定の両方を任されています。ハイエクは、この点を既存の民主主義政府の構造の欠陥として指摘していました。

その結果起こる事態として、ハイエクは以下のことを挙げています。
 正しい行為のルール(消極的)と行政組織のルール(積極的)が混同される
 普遍的な正しい行為のルールの施行にたいしてのみ与えられるべき強制力をもちいる権限が、行政の組織や運営にも与えられる
 立法権力と行政権力が結びつく
 政府機関が一般的な正しい行為のルールの適用から除外される
 民間の個人と組織の行動が行政機関による特別な命令や許可に従属させられる
 政府は目標や計画を実行するには多数派にとどまることが必要になり、その目標や計画とは必ずしも関係のない種々の利益集団に特別な便益を与えて票の獲得を目指す
 政策が主に特定の利益集団との一連の取引によって決定される

つまり、民主主義の理想は本来恣意的な権力を防止することを意図していたのに、「代議員議会が二つのまったく異なる任務を負わされてきた」結果、新しい権力の源泉になっている。しかしそれは構造の問題であり、政治家や行政の人たちが与えられてきた地位においてなすべきことをしたからといって、それを非難する権利は私たちにないというのです。

立法院の設置の提案

社会の成員すべてが従わなくてはならない正しい行為のルールの発見や定式化や承認といった任務に求められる能力は、行政にかかわる業務に求められる能力と必ずしも同じではないと思われます。ハイエクは、前者の能力を認められて選出される人びとからなる立法院(Legislative Assembly)を設置し、現在の手続きで可決される行政のための法律や規制に立法院の承認を求めることを提案しました。その任務に適した人たちの特徴として、ハイエクは以下のようなことを考えていたようです。
 普段の生活のなかで尊敬と権威を集めてきた人
 経験豊かで、賢明で、公正であると信頼されている人
 各世代の同世代から尊敬を集めている人
 行政の行動を含むすべての行動の法的枠組みを改善するという長期的な問題にすべての時間をささげることのできる人
 立法者としての仕事を学ぶ十分な時間があり、官僚を前にしても無力ではない人

ハイエクが立法院と呼ぶものを設置することの実現可能性についてはまだわかりませんが、私法を制定する権限をなんらかのかたちで既存の代議員議会から切り離し、政府の強制装置としての業務とサービス機関としての業務を分割することが経済構造改革の前提になるというアイデアは、興味深くかつ検討に値するものであるように思われます。
(次回に続きます)

髙橋 大樹
企業の現場に身を置きながら、社会科学の理論研究をしています!
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