行政サービスが市民への強制力を帯びやすい現行の政府の構造を改めようという前回の投稿の続きです。今回は市場経済の規律としての「他者にとっての価値の探求」について書きたいと思います。
私たちは分業と交換に基づく社会生活(=市場経済)に参加することで、各自がさまざまな財とサービスを自由に使えるようになる見込みと機会を高めています。ハイエクは市場経済の性質を深く分析し、私たちが心がけておくべきことをいくつか指摘していました。
第一に、能力ある成人はまず自分と扶養家族の生活に責任に負わなければならないことです。これは、自分たちの過失で友人や社会の他の成員になるべく負担をかけてはならないことを意味します。(もちろん自分の面倒を見ることのできない人びとには、誰もそれ以下には落ちなくなる保障が与えられることが前提です。)
第二に、個人や組織が見返りに得られると期待できる報酬が、財やサービスを受けとる側の人びとにとっての価値でなければならないことです。理由はハイエクがいうように、どちらかといえば「人間は生まれつき怠惰で不精、また先のことを考えないで浪費的である」ように思われるからです。
報酬がそのサービスから恩恵を受ける人びとにとっての価値であることの意義は、私たちが個人的な動機や関心からはじめたとしても、各自の身近な周囲の環境を他者の目的のために役立たせようと努力し、自分の能力を何かに貢献できるよう利用することに導かれることにあります。
逆にいえば、この条件が満たされている場合に限り、どんな仕事をなすべきかの決定を各自に許すことができるともいえます。
ハイエクは、経済活動における個人の適切な持ち場(例えば、その人は起業家か従業員かなど)が、仲間や同業者たちから評価されるその人の功績とは必ずしも結びつかないことを示唆していました。
つまり、長い時間と努力を費やして高い技術を獲得した人であっても、彼は自分だけでは「対価を支払う他者にとって有用な具体的サービスにその能力をうまく転ずる」ことができないかもしれません。その場合、「その能力から最大の便益を引きだせる人たちに自分の能力を知らせる」ことができなければなりません。
あるいは、人の能力を具体的サービスにうまく転ずる起業家的な能力をもちながらも、現在は従業員などの立場で仕事をしている人びともいるかもしれません。
自分の能力のための適切な場所を探し出す必要があるという基本的な事実がもっとよく理解されなければならない、とハイエクは主張していました。しかし今後みていくように、そのような努力が十分になされていない原因として、人為的な障害が存在することも指摘していました。
また他者にとっての価値といっても、当初は少数者の意見や嗜好にとどまらざるを得ない分野(とくに「文化」と呼ばれる非物質的な価値の分野)も重要であるとハイエクは考えていました。
(次回に続きます)
髙橋 大樹
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