当方は前日、小説家の曽野綾子さんの産経新聞のコラムに対する朝日新聞らの批判について、自分の考えを書いたが、今回はそれに少し補足したい。移住者問題は単なる不足する労働力の輸入ではなく、当然のことだが、移住者の宗教、文化・慣習も同時に入ってくるという点を考えていきたいのだ。
日本は少子化に直面し、近い将来労働力不足が深刻となるといわれている。そこで労働力不足を移住者の導入でカバーしようというわけだ。不足分の労働力を移住者の活用で克服する考えは日本独自のものではなく、欧州諸国では久しく実施されてきた政策だ。
ここで問題となるのは、移住者は単なる労働力ではないという事実だ。異なった文化、社会、そして宗教を持った人間であり、彼らには長く培ってきた風習や慣習があるという点だ。もちろん、移住者は海外で就労しようとすれば、その先の法体制、社会、文化、慣習を尊重しなければならないし、可能な限り、その社会へ統合するように努力しなければならないことはいうまでもない。
一方、移住者を受け入れる側は、移住者は単なる労働力ではなく、独自の文化、宗教を持った存在という点を看過すべきではないだろう。移住者政策で大きな問題は、その労働力の質よりも、その文化、社会、宗教面の相違から生じる不協和音への対策だ。
人種の壁を追い払い、全ての人間が共存、共栄する社会は私たちの理想だが、その理想社会までにはほど遠い現在、日本が近隣国から移住者を呼ぶ場合、やはり自国民と移住者間には文化、宗教の相違があることを忘れてはならない。欧州社会では実際、移住者の文化、宗教の相違からさまざまな対立が生じている。移住者の文化、宗教の輸入は小さな問題ではないのだ。
キリスト教社会の欧州諸国で多くのイスラム系移住者が住み込み、イスラム寺院、ミナレットが建立される。イスラム系住民は日に5回、ミナレットから祈りの時を告げるアザーン(呼び声)に従って祈りを捧げる。欧州の各地でイスラム・フォビア現象が見られるが、それはイスラム過激テロ事件の影響からというより、原地住民と移住民間の日々のささやな文化的衝突の積み重ねから生まれてきた社会現象だ。
曽野さんは「共存するが、居住は別に」といったのは、日々の葛藤を最小限に抑えるための知恵だろう。その意味で、立派な危機管理だが、曽野さんもご存知と思うが、それは暫定的・現実的解決策に過ぎず、問題の根本解決ではない。やはり、共存し、同じ地域で居住できる社会を構築すべきだろう。
日本では、隣人のピアノの音がうるさい、といって殺人事件が起きたことがある。この場合、ピアノの練習時間を調整すれば解決できるかもしれないが、移住者が日本にきて労働し、生活することから生じる諸問題の解決は簡単ではない。
移住者は日本社会へ積極的に統合を進めるべきだが、受け入れ側の日本人は、移住者の文化、風習、宗教に理解を深めなければならない。適応力は人によって異なるが、単一民族として長い間生きてきた日本人が異国の移住者と共存できるまでには、やはり相応の時間がかかるだろう。
その意味で、「共存するが、居住は別に」という曽野さんの考えは、理想ではないが、現実の移住者問題を反映させた解決策の一つだろう。一方、曽野さんのコラムを「人種差別だ」と批判する人には、欧州の移住者社会を一度視察されることを勧めたい。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年2月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。