3月23日付の日経新聞に「なぜ減らない 長時間労働」という記事があります。2014年の残業時間は年173時間で20年前より36時間増え、統計のある1993年以降最長となっているというのです。イメージ的にはOECDの統計では1990年に2000時間を超えていたものが今や1800時間を切りOECD平均を下回るというのが一般的な認識でした。働き蜂ニッポンの汚名は改善されたと世界は思っているかもしれませんがそこには統計のマジックがあったようです。
OECDの統計はパートさんの労働も含めた総平均、そしてそのパートさんの比率は全労働時間の3割も占める中、統計のダイリュージョンの結果、労働時間が短くなったというのがその答えのようです。正社員だけ見れば2021時間だそうでこの10年ほとんど変わっていないという実態も明らかになりました。
今日はこの報道をもう少し考えてみましょう。
私が大学生の時、イタリアはなぜ、労働生産性が低く、企業は高コスト体質なのかという講義では「5時の終業の音と共にやりかけの仕事もぱっとやめて片付けもせず、さっさと帰宅する国民性」を指摘していました。
カナダに来た時、金曜日の午後、天気が良いと昼過ぎから帰宅ラッシュになる交通事情が呑み込めませんでした。最近では減りましたがビジネスランチでワインを飲むこともしばしばでした。2杯も飲めば午後の仕事に支障をきたさないとは言えません。私が顧客を誘って日本食レストランに行けば熱燗を注文するその相手に目を丸くし、相手はなんでお前は飲まないのか、と聞き返され返事に窮したこともあります。
カナダで建設事業を通じて思ったのは「カナダの時間は広大な大地を流れる大河の様に時間はゆっくりと果てしなくあるものである」と考えているに違いないと確信したことでしょうか?工期の管理ができず、6か月遅れなどは当たり前なのですが、管理側が作る工程は管理能力、品疎な物流、業務の手直しの繰り返しといった実態面を反映しておらず、工期に文句を言おうものなら施主は工事業者に恫喝されるような状態でありました。
アメリカのエリートたちが日本人よりはるかに働くことはよく知られています。3年働いて2年遊ぶぐらいの感覚の人もいるし、甘い蜜がしたたたる中、働けば働くほど巨額の報酬が得られ、そのポジションを守るためにもっと働くスタイルはアメリカらしい鞭の打ち方でしょう。
日本を見れば正社員の労働時間が下がらないのは正社員が時給で労働していないからです。昔、同僚と酒を飲みながら愚痴ったのは「お前、もらっている給料を時給換算するとそこらのアルバイトさんより低いって気がついたか?」であります。管理職になれば残業時間20時間足らずと同額の管理職手当に変わり、無制限の労働奉仕を強いられるそのつじつま合わせは不可能でありました。
それでも文句言わず働いたのはプロジェクトや事業、目先の目標を達成するというチームの中での一体感に燃えていたからでしょう。与えられたタスクをきちんとこなし、チームの皆に迷惑を掛けないようにするという日本人のDNAが作る働き蜂ニッポンを欧米風の切り口と単純比較するのは難しいでしょう。
私は今でも現場仕事を普通にします。むしろスタッフが嫌がる仕事を私がカバーすることもあります。それを傍で見ている私を知るローカルの人は100%不思議な顔つきをし、挙句の果てに「お前は『karo-shi』という言葉を知っているか」と言われたこともあります。少なくとも私が過労死するわけないと信じているのは好きでやっているからであり、ストレスなんてないからかもしれません。
学究肌、先生、学者は平均寿命が長く、サラリーマンは短いと言われたことがあります。学術的にどうなのか、調べた結果は見たことがありませんが、研究者は好きな研究をしているからいくら本を読み、論文に精力を傾けてもストレスが少ないことはあるのかもしれません。
日本人は生まれながらして労働に対して勤勉で高い誇りを持つことを当然のこととしてきました。そして根本的に労働が好きだということは確かでしょう。労働時間の持つ真意を簡単なメジャーメントとしてだけで捉えると誤解を生むのかもしれません。
今日はこのぐらいにしておきましょう。
岡本裕明 ブログ 外から見る日本 見られる日本人 3月23日付より