私が小学5年生のとき、夏休みの作文が地元の川崎市の作文コンクールで入賞し、市の文集に載った。「文筆家」としての初めての「デビュー作」だ。タイトルは「おばあちゃんがいてよかった」。
母が余命3ヶ月の癌と宣告され、入退院を繰り返すなか、父方の祖母であるおばあちゃんが大分から川崎まで来てくれて、私を含めて孫たちのお世話をしてくれた。
貧乏で大家族だったうちの家族は、川崎から大分までそれなりの交通費がかかるので、大分の実家に帰ることはほとんどなかった。だから、それまで「おばあちゃん」は遠い存在だった。しかし、母が闘病生活に入ると、おそらく幼い孫たちのことが気になってしかたなかったのだろう。「おばあちゃん」が真っ先に駆けつけてくれたことがうれしかった。一緒に皇居に行ったときに、「おばあちゃん」が手を合わせてお祈りしていること、おそらく母の回復を神様に祈願してくれていたその姿が、今でも忘れられない。
母が病気でいつ死んでしまうのか不安でたまらなかったが、でも、「おばあちゃんが来てくれてよかった」、「おばあちゃんがいてよかった」。幼心にそう思った。処女作にはそんなことを書いた。
母はその後、2年間は地上で生きながらえてくれ、母の療養も兼ねて家族も故郷の大分に引っ越した。自宅療養した故郷での母の闘病時代は、それまで忙しかった母もやつれた姿だったが家にいつもいてくれたし、父も母の看病のためによく帰ってくれていた。大分県内にある父方の実家にも、母方の実家にもよく帰郷した。だからその1年間は、自分にとって大切な、一生忘れられない期間だ。
そんな母が亡くなって、明日4月6日で22周年になる。ちょうど今日のように、桜が散って空を舞う季節だった。
そして、その17年後、おばあちゃんは97歳で大往生した。死の直前まで、子どもと、孫と、ひ孫のことを想い、尽くしてくれたおばあちゃんが亡くなって5周年の集まりを、おじいちゃんの40周年と合わせて先日3月29日に大分県杵築市で行った。6人の子どもとその嫁婿、25人の孫とその嫁婿、ひ孫たちと総勢100名以上が全国、そして海外からも集まった。みんな、「おばあちゃんがいてよかった」と想って、集まって来たに違いない。
世界がもし100人の村だったら、こんな村だったらよいのにな、と心からおもった。そこは間違いなく平和な世界に違いない。
世界は、家族関係の延長でできている。
世界の平和は、家族の平和から始まる。
世界の争いも、家族の争いから始まる。
格物致知誠意正心、修身斉家治国平天下。
お母さんと、おばあちゃんに、心の底から「ありがとう」と伝えたい。
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