中国首相の「先達の罪」発言から学ぶ --- 長谷川 良

アゴラ

共同通信は14日、北京発で以下の記事を発信してきた。


「中国の李克強首相は14日、北京の人民大会堂で河野洋平元衆院議長が会長を務める日本国際貿易促進協会の訪中団と会談し、歴史問題に関して『指導者は先達の罪も背負うべきだ』と述べた」

李首相のこの発言は、眼前に座るゲストの河野氏に向かって、というより、東京にいる安倍晋三首相に向けたものと受け取られている。「戦後70年談話」の草稿に取り組む安倍首相へのメッセージというわけだ。興味深い点は、中国共産党政権の李首相が、「先達の罪」と述べたことだ。そこで「先達の罪」とは何か考えながら、なぜ李首相の発言が興味深いかを説明したい。

ハッキリとしている点は、李首相は日本の現指導者が「先達の罪」を背負っていないと憂慮していることだ。「先達」とは、先立って歩む道案内人、指導者たちを意味するだろう。要するに、李首相は日本の前世代の為政者が犯した罪に対して、現世代の日本指導者はその罪を背負うべきだといいたいわけだ。

前の指導者が犯した悪事に対して後に続く世代がその責任を背負う、という主張は正論だ。その点で当方は李首相の発言に異議はまったくない。

ところで、「先達の罪」は決して日本人指導者だけではない。どの国、民族にも程度の差こそあれ、「先達の罪」がある。少し飛躍するが、イエス・キリストを殺害したユダヤ民族のその後の歴史を思い出せば、「先達の罪」が如何なるものか、明らかになるだろう。民族の罪、国家の罪といえば、漠然とした感じだが、歴史の中でその意味が次第に明らかになっていくわけだ。

清教徒たち(ピルグリムファーザー)が建国した米国の歴史は輝かしい成果の連続のように見えるが、その裏には先住民インディアンに対する蛮行、黒人迫害とその奴隷制度など歴史の負の面がある。米国はその「先達の罪」に対して久しく黙認してきたが、やはりさまざまな形でその罪の責任を問われてきている。

李首相が示唆した「先達の罪」について考えてみよう。日本は近隣諸国へ侵略し、植民地化してきた歴史がある。その「先達の罪」に対して、日本は戦後、近隣諸国の経済支援などを通じて返済してきた。日本の戦後の努力をどのように評価するか、十分と見るか、不十分と受け取るかは国によって違う。中国、韓国の両国は日本の努力を「不十分」と見て、批判してきた経緯がある。

ところで、他国の「先達の罪」を指摘するのに忙しい李首相にぜひとも思い出してほしいことがある。毛沢東時代、何人の国民が粛清されたのか。数千万人の同胞が中国共産党の圧政で犠牲となった。戦争の犠牲者ではない。自国民への殺害だ。これも中国の「先達の罪」に数えられるだろう。

中国共産党が過去、権力闘争や国民弾圧で殺害した自国民の数は日中戦争の時の犠牲者より多い、と意地悪なことを言うつもりはないが、中国共産党指導者の一人として、李首相にはこの「先達の罪」を忘れないで欲しいものだ。

だから、河野氏との会談では、李首相は「わが共産党政権は恥ずかしながら大きな罪を犯しました。われわれはその『先達の罪』を背負っています。日本も同様だと思います。私が『先達の罪』を共に背負っていこうと述べたと安倍首相にお伝え下さい」と語ったとすれば、李首相の「先達の罪」発言は日本でもっと大きな反響を呼んだことだろう。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年4月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。