当方はこのコラム欄でメルケル独首相を称賛するコラムを掲載したばかりだが、その「世界で最も影響力を有する女性」のメルケル首相が窮地に陥ってきたのだ。米国家安全保障局(NSA)と独連邦情報局(BND)が連携してネット上の無数の個人情報を収集し、機密プログラムを駆使して産業スパイ工作などを行い、ドイツの国益に損害を与えていたこと、その事実をメルケル首相、最側近のトーマス・デメジェール内相やペーター・アルトマイヤー官房長官らは2008年以来、知っていたが対策を講じなかった疑いがもたれているからだ。
これまで従順な連立政権パートナー役を務めてきた社会民主党(SPD)党首のガブリエル経済相がメルケル首相を批判し出したのだ。独週刊誌シュピーゲルによると、ガブリエル経済相はメルケル首相に、NSAがドイツ国内で産業スパイをした疑いについて問い合わせたが、首相からは「ない」という返答を受け取ってきた。NSAがBNDの助けを受け国内で産業スパイ活動をしていたことが明らかになれば、メルケル首相は連立パートナーに嘘をついたことになる。
社民党やメディアから「NSAが作成した特殊プログラム(選択子照合リスト=Selektorenlist、探索文字列=Suchbegriffe)を公表すべきだ」という要求が出てきた。それに対し、メルケル首相は「BNDの国家機密に関する内容は公表できない」という基本姿勢を繰り返している。
欧米の情報機関が相互助け合い情報を共有することは通常だが、NSAがドイツ企業をスパイし、BNDがそれを知りながら助け、情報を米国側に流していたとなれば、国益に反する犯罪行為となる。ちなみに、NSAとBNDは2002年、何を盗聴し、何をしないかなどを明記した協定を締結しているが、NSAがその協定に違反している疑いが出てきたわけだ。「メルケル政権が公表を拒否するならば、カールスルーエ(独南部)の独連邦憲法裁判所に訴えるべきだ」という声も聞かれる。
元NSA職員のエドワード・スノーデン氏はシュピーゲル誌(5月9日号)とのインタビューの中で、「NSAが独シーメンス社の情報を収集していたことを明らかにしたが、NSAの産業スパイ活動は既成の事実だ」と証言している。シュピーゲル誌によると、産業スパイによる年間損害額は510億ユーロになるという調査結果があるという。
シュピーゲル誌が実施した世論調査では、国民の69%が「メルケル政権はBNDを十分監視下に置いていない」と受け取り、「十分監視している」は16%に過ぎなかった。ただし、「BNDとNSAとの情報工作問題でメルケル政権への信頼が減少した」と感じる国民は33%に過ぎず、63%は「信頼は変わらない」と答えている。
2013年10月、NSAがメルケル首相の携帯電話を盗聴していたことが発覚して以来、両国関係は急速に冷たい関係となった。昨年7月2日には、独情報機関関係者が218件に及ぶ機密文書を米国側に売り、2万5000ユーロを受け取っていたことが発覚した。その数日後(7月9日)、今度は独連邦国防省職員のスパイ容疑が浮上した、といった具合だ。メルケル政権は昨年7月10日、駐ベルリンの米情報機関代表者(CIA)に国外退去を命じたほどだ。
米国が同盟国ドイツ国内で情報活動を展開する主要理由は、ドイツが他の欧州諸国とは違い、ロシアやイランとの関係が深いことと、米国内多発テロ事件(2001年9月11日)の容疑者の多くがテロ前にドイツ国内に潜伏して、テロの訓練を受けてきた事実が明らかになったからだ(「米国がスパイ活動する尤もな理由」2014年7月13日参考)。
メルケル首相は14日、女子サッカーのチャンピオンズリーグ決勝戦を観戦していた。贔屓のフランクフルトが2対1でパリ・サンジェルマンを破り、優勝すると、飛び上がって喜んでいる首相の姿がテレビで映し出された。NSAとBNDの不法な情報活動でメディアから厳しく追及されている最中、サッカー試合を観戦するメルケル首相には、余裕すら感じられた。あと半年で首相在位10年目を迎えるメルケル首相はどのような苦難に直面してもポーカーフェイスで乗り越える知恵を持った政治家なのだろう。ただし、NSAの産業スパイ活動の実態が更に明らかになった場合、対米関係の見直しと共に、メルケル首相の責任問題が浮上してくるのは避けられなくなる。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年5月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。