「政治家」にあって「学者」にないもの --- 長谷川 良

「学者」でも「政治家」でもない当方が両者について書くのは不適切で、過分なテーマかもしれないが、寛容の心で忍耐して読んでいただければ幸いだ。

「学者」と呼ばれる人々は通常、過去と現在の主要な学説、文献に精通している。だから、自身の思想を主張する時でも必ず過去の多くの文献と理論に言及し、その後で自身の説のユニーク性、論理性を主張する。文献や理論に通じていない普通の人々にとって、学者の主張を理解するためには大変な努力が求められる。普通の人々が安易に「分かった」といえば、学者はひょっとしたら気分を害し、神経質な学者ならば、侮辱されたと受け取るかもしれない。

一方、「政治家」は普通の人々(有権者)が聞き手であり、彼らに政策や法案を分かりやすく説明しなければならない。学者のように難しい自説を語って、自己満足で終わらせるわけにはいかない。それだけではない。政治家は相手に理解され、支持されなければ意味がない。なぜならば、政治家はその政策や法案を作成するだけではなく、それを実際に履行しなければならないからだ。

学者にとって、ライバルから自身の思想の非論理性を突きつけられた場合、最大の侮辱だろう。逆にいえば、論理が一貫していたならば、それが実際に履行可能かどうか余り深刻に考えない。なぜならば、学者は行動を要求されることも、その責任を追及されることもないからだ。「第2次世界大戦はあいつの思想、学説が契機となって誘発された」と指摘され、追及された学者はいないだろう。

読売新聞電子版に、自民党の高村正彦副総裁が13日、富山市内で講演し、衆院憲法審査会で憲法学者が安全保障関連法案を「違憲」と指摘したことに関し、「学者の言うことを聞いていたら日米安全保障も自衛隊もない。日本の平和と安全はなかった」と述べたという記事が掲載されていた。

高村氏は、「学者は日本の平和と安全に直接責任を担っていない。彼らが国体論や憲法論をまとめたとしても、それが日本の安全に寄与するかは別問題だ」と言いたかったのだろう。
安倍政権は、衆院憲法審査会で憲法学者が「違憲」と判断した、集団的自衛権行使を可能にする安全保障関連法案を「合憲」とする見解を提示している。

憲法学者は「論理」を大切にする。具体的に考えてみよう。集団安保法案は憲法9条の内容と一致しないから、「違憲」だろう。憲法学者は、「日本海周辺を潜伏する敵国に対して、国の安全はどうなりますか」という質問に答える義務はない。憲法と現実が一致しない場合、憲法学者が主張できる唯一のことは憲法や関連条項の改正を助言することだ。

一方、政治家はこれまで国家の安全と憲法が一致しない状況が生じた場合、憲法の改正を要求するか、憲法の解釈でその矛盾を乗り越える努力をする(実際は後者)。政治家は決して、集団安保が憲法違反だという段階で止まらない。なぜならば、政治家は国家の安全と平和に責任を持っているからだ。高村副総裁が「学者の言う通りならば、平和はなかった」という台詞は、学者にはきついが、正鵠を射ている。学者は論理を愛し、その一貫性を大切にするが、政治家は責任と行動を強いられるからだ。

米国の著名な国際政治専門家 ハーバード大学のジョセフ・ナイ教授はカーター政権下で国務副次官、クリントン政権で国家情報会議議長、国防次官補を務めた人物だ。ナイ氏の見解が欧米メディアで重視されるのは、同氏が学者と政治家の両世界を体験し、熟知しているからだろう。
ちなみに、日本の永田町界隈には、国会で批判や野次を飛ばせる議員は屯しているが、学者の論理性と政治家の現実感覚を兼ね備えた議員は案外少ないのではないか。日本の学者もまた、書斎を抜け出し、外の空気を吸うのもいいのではないか。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年6月21日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。