「憤」の一字を抱く

安岡正篤先生は「人の人たるゆえん」として、「敬」と「恥」という言葉を挙げておられます。此の関係につき当ブログでもこれまで幾度か触れたことがありますが、之に関し先生は御著書『照心講座』の中でまた次のように言われています。

『敬という心は、言い換えれば少しでも高く尊い境地に進もう、偉大なるものに近づこうという心であります。したがってそれは同時に自ら反省し、自らの至らざる点を恥づる心になる。省みて自ら懼(おそ)れ、自ら慎み、自ら戒めてゆく。偉大なるもの、尊きもの、高きものを仰ぎ、これに感じ、憧憬(あこが)れ、それらに近づこうとすると同時に、自ら省みて恥づる、これが敬の心であります』

昨日のブログ『志ある者は事竟に成る』では、仕事で結果を出す上で絶対欠かせぬものに「憤」の一字を挙げました。上記した敬の心より生じた恥の気持ちが、「自分も発奮してもっと頑張ろう」という憤の気持ちに繋がって行きます。

此の憤の気持ちは、何事かをやり遂げるに不可欠なものです。敬と恥が相俟って醸成されてくる憤の気持ちが、大きくは万物の霊長としての人類を以てあらゆる面での進歩を促し、またその人自身を段々と変え成長させて行く原動力にもなります。

それがため敬を知り恥を知らねばならず、之は人間誰しもが持っている一つの良心とも言って良いものです。そんな敬と恥を自らの内に覚醒させるべく、出来るだけ若いうちに心より師事するに足る人物を見つけ出し得、その全人格を知ろうと大いに努めねばならないのです。

『人間はできるだけ早いうちに、できるだけ若い間に、自分の心に理想の情熱を喚起するような人物を持たない、理想像を持たない、私淑する人物を持たないのと、持つのとでは、大きな違いです。なるべく若い時期に、この理想精神の洗礼を受け、心の情熱を燃やしたことは、たとえ途中いかなる悲運に際会しても、いかなる困難に出会っても、必ず偉大な救いの力となる。若い時にそういう経験を持たなかった者は、いつまでたっても日蔭の草のようなもので、本当の意味において自己を伸ばすということができない。ことに不遇のときに、失意のときに、失敗のときに、この功徳が大きいものです』(『運命を開く』)

安岡先生は上記したように言われています。何よりも大切なのは自分の範とすべき師を持ち、その人物は如何にしてそういう偉大さを身に付けたか等々を学び、自分もその人物に一歩でも近づこうという思いを抱くことです。

誰をとして選ぶかは、人生の一大問題と言っても過言ではありません。昔の人が師を求めて色々な所を旅し、そしてこれと思う人の所で「私の師になってください」と三日三晩立ち尽くめ、三日三晩座り尽くめで御願いしていた類の話はよく聞きます。

目の前で師と触れ合い師の呼吸を感ずる状況で、師の謦咳に接することが最も望ましいのは言うまでもありません。但し、師に恵まれたとは言い難い小生のように残念ながらそれが叶わぬ場合は、師と定めた偉人の書を通じて学びそれを血肉化して行くのです。

そうやって師を全人格的に理解しようと学び続けて行く中で、益々その人に対する尊敬の念が助長されることもありましょう。そうなりますと今度は、その敬の気持ちの対極にある恥の気持ちが生まれてきます。それ即ち、「その人に比べて自分は何て不甲斐ないのか」といった気持ちです。之がとても重要なのです。

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