欧州連合(EU)のユーロ圏首脳会談は13日、ギリシャへの金融支援再開に関する協議を始めることで一致した。これでギリシャの破産の危機は一応遠ざかったと受け取られている。
話は少し戻る。ギリシャが先月30日までに国際通貨基金(IMF)へ債務を返済できなかった時、IMFは「延滞」という言葉を使い「デフォルト」という言葉を回避した。経済問題に疎い当方は、コラムを書くときは経済用語に苦慮する。国が債務を返済できない場合、通常デフォルトと呼ぶ、と単純に考えてきたが、どうやらそうではないらしい。債務返済が履行できなかった場合、デフォルトだが、デフォルトという判断が下されるまでデフォルトではない、ということが分かってきたのだ。
ドイツの哲学者ニーチェは、「事実など存在しない。存在するのは(事象に対する)解釈だけだ」と述べている。日本人の読者ならば直ぐに、憲法第9条の話を思い出すだろう。憲法第9条は解釈の歴史だ。シンプルに考えれば、現状に適応できなくなったのならば、改正するか、新しい憲法を作成すればいいと思うのだが、日本では憲法改正は久しくタブー視され、解釈を繰り返すことで乗り越えてきたことは周知の事実だ。憲法問題では、日本はニーチェの良き理解者といえるわけだ。
先述したように、ギリシャのデフォルト問題でも、事実はデフォルトだが、デフォルトと解釈されない限り、デフォルトとはいえない。それでは、いつデフォルトとなるのか。欧州の政界ではEUの盟主ドイツが、「ギリシャはデフォルトだ」と断言するまではデフォルトとは言えないのだ。もう少し、突っ込んでいえば、メルケル独首相が、「われわれはギリシャのデフォルトを回避するためにあらゆる手段を駆使したが、アテネはデフォルトに陥った」と発言した時、ギリシャは5度目のデフォルトに陥ったことが正式に事実として定着するわけだ。
すなわち、デフォルトという経済用語一つにしても、事象だけではなく、それを判断し、解釈する人が不可欠となる。そして最終的解釈を下せる人こそ本当の権威者ということになる。欧州の場合、オランド仏大統領でもなく、トゥスク欧州大統領でもない。メルケル独首相が欧州政界では最終意思決定権を持っているのだ。
ブリュッセルが作成した緊縮政策に反対するアテネ市民の最大の攻撃対象はオランド大統領ではなく、メルケル首相だ。これをみても、同首相が欧州の権威者であることが分かる。当方が住むオーストリアのファイマン首相がアテネ市民から攻撃を受けることは考えられない。なぜならば、ファイマン首相は最後の解釈を下す政治家ではないからだ。
ギリシャの債務問題で欧州政界が混乱してきた背景には、最後の解釈権を持つドイツがフランスや他国の加盟国に気兼ねして決定を安易に下せられないからだ。ナチスの蛮行という暗い歴史を背負うドイツは戦後70年を過ぎても、その指導力を発揮する際には躊躇せざるを得ないのだ。
そのメルケル首相が、「破産を繰り返すギリシャをユーロ圏から追放しよう」と主張したならば、フランスやイタリアは不満があったとしても、メルケル首相の解釈に正面から反対することは出来ないだろう。
例えば、国連でテロ対策に関連した国連文書が作成された時だ。最初の争点は、「テロとは何か」といった定義だった。そしてテロの定義は国連加盟国の数ほどあることが判明した。すなわち、テロに関する共通の定義など存在しなかったのだ。しかし、国連は反テロに関する宣言文書を採択した。同宣言文書を主導した米国がテロの定義で解釈を提示し、加盟国がそれを受け入れたからだ。
いずれにしても、「神は死んだ」と宣言したニーチェには首肯出来ない部分もあるが、「事実は存在しない。存在するのは解釈だけだ」という哲学者の考え方には教えられる点が少なくない。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年7月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。