米国務長官が訪問国に17日間も滞在し続けるということは珍しい、というより、「米国務長官の海外訪問国最長滞在記録」というべきだろう。ジョン・ケリー国務長官(71)がその新記録を樹立したのだ。「歴史的」と評価されるイランの核協議の最終合意の陰で、欧米のメディアでは無視されているケリー氏の新記録について、読者に報告する。
▲ケリー米国務長官、ファビウス仏外相、クルツ・オーストリア外相(イランの核協議で オーストリア外務省提供)
ウィーンで開催中のイラン核協議に出席するためケリー国務長官は先月28日ウィーン入りした。当時はまだ交渉期限が6月30日だったので、その期限に合わせてウィーン入りしたわけだ。しかし、交渉は延長し、今月14日にやっと最終文書の合意が実現した。ケリー氏はその日まで通算17日間、“音楽の都”に滞在し続けていたのだ。
米国務長官となれば、飛行機で世界の紛争解決のために飛びまわる。米国務長官は通常、1日、最長でも2日間も同じ場所に留まらない。1日で2カ国を訪問することも珍しくない。その米国務長官が海外で同一の都市に17日間も滞在したというのは、繰り返すが、驚くべき記録だ。イラン核協議の最終合意という歴史的偉業に花を添える新記録というべきだろう。
ケリー長官が新記録を樹立できた理由は、ウィーンでイランの核問題が大きな山場を迎え、最終合意に向かっていたという外交事情があったからだ。ただし、フランスのファビウス外相やロシアのラブロフ外相は数回、母国に戻り、協議が進展し、最終合意が確実となってから再度ウィーン入りしていた。最終合意の日までウィーンに留まり続けた外相はケリー氏だけだったのだ。
ケリー氏が新記録を達成できたもう一つの理由は、足の骨折事故だ。ケリー氏は5月31日、訪問先のフランスで自転車事故で右足を骨折。先月2日、ボストンで手術を受けたが、歩行には杖の助けが必要な身となった。すなわち、ケリー氏は移動したくても、安易には移動できない身となったのだ。
ケリー氏の17日間の行動を紹介する。同氏はウィーン滞在中は宿泊先のホテル「インぺリアル」から毎朝、会議場の Palais Coburg までリムジンに乗って通った。会社員が通勤するようにだ。
ちなみに、ケリー氏が宿泊した「インぺリアル」は、オーストリアが敗戦後、米英仏ソの4カ国に10年間占領されていた時、旧ソ連赤軍が占領本部として利用したホテルだ。そのため、戦後、モスクワから要人がオーストリアを訪問すれば、宿泊ホテルは必ず「インぺリアル」を利用した。その元・ソ連赤軍の占領本部だったホテルにケリー米国務長官は17日間、滞在していたわけだ。
ところで、オーストリアのカトリック系通信社「カトプレス」によると、ケリー長官は12日(日曜日)、オーストリアのローマ・カトリック教会の精神的中心教会、シュテファン大聖堂を訪問し、午前11時のラテン語の礼拝に出席している。ケリー氏は敬虔なカトリック教徒だ。ちなみに、カトリック教徒の政治家が米国務長官に就任したのは1980年以降ではケリー氏が初めだ。
ケリー氏はコロラド州で生まれた後、家族はマサチューセッツ州に移転。ケリー氏はそこで成長。ワシントンの政界では「欧州の友人」として知られている。ケリー家はオーストリアとは繋がりがある。ケリー氏の父親はオーストリア・シュレシーン(Schlesien)の Bennisch 出身(現在のチェコの Benesov )だ。ケリー氏の祖父 Fritz Kohn(1873~1921年)は1901年、ユダヤ教からカトリック教に改宗。家族は1904年、米国に移住し、姓を Kohn (コーン)から Kerry に改名した。
なお、イランの最終文書が計画通り履行されるならば、ウィーン核協議の立役者だったケリー氏はイランのザリフ外相と共にノーベル平和賞の有力候補者に挙げられるという。その際、ケリー氏の“ウィーン17日間滞在記録”はノーベル委員会にも必ず高く評価されるだろう。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年7月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。