安全保障の問題を真剣に考える

近隣諸国との友好関係は重要だが、しばしば感情的な議論に巻き込まれるので、少し億劫でもある。その一方で、「安全保障」の問題はそれ以上に重要だと思うので、今回はこのテーマを真剣に考えてみたい。この関係でも感情論は避けられないだろうが、「我々の生命と財産、自由と尊厳が直接脅威にさらされるのを防ぐ」のが「安全保障」なのだから、感情論にかまけている余裕はないだろう。

結論から先に言うなら、私は今回の安倍首相の新安保体制の議論の進め方には非常に不満だ。「このタイミングでやってしまおう」「解釈論で乗り切ろう」という結論をあらかじめ出してしまっているかのようなので、議論に誠意が感じられず、それ故多くの反発を招いてしまっている。本来は「憲法改正」という「王道」で進めるべき事を「解釈論」でごまかそうとすれば、真剣な国民的議論の機会を自ら放棄する事になり、基本的に同じ考えを持っている人たちの心までが離れてしまう。

これには、勿論、真面目な人たちの間でも賛否両論があるだろうが、私は「集団的自衛権」の保持に賛成だし、安倍首相の唱える「積極的平和主義」にも違和感はない。だからこそ、今の議論の進め方が残念なのだ。「戦争ハンターイ」と言っている人たちの議論はあまりに非論理的で無責任なので、こういう機会にこそ徹底的に議論して、国の安全保障のあり方についての「国民レベルでのコンセンサス」を確立するべきなのに、安倍首相は敢えてそれを避けようとしているかのようだ。

戦後の日本の安全保障問題は「東西冷戦時代」と「その後」の二つの時期に分けて考えたほうが良い。

東西冷戦時代においては「戦争は避けられないかもしれない」という深刻な危惧があったので、考えは大きく二極に分かれたし、両者間に妥協の余地はなかった。「日本は共産化されてはならない(ソ連や中国の属国になるのは真っ平だ)」と考える人たちは、ソ連軍の北海道侵攻を真剣に恐れていたので、「その為には西側陣営の防波堤になるのも良しとすべき」と考えていた。

これに対し「社会主義の方が資本主義よりは優れた制度だと思うので、ソ連や中国との友好は極めて重要だ」と考えていた人たちにとっては「自らの命を懸けて西側陣営の防波堤となる」事などは狂気の沙汰だった。しかし、日本人の多くは日本が東側につく事までは全く考えていなかったから、彼等は「苦肉の策」として「非武装中立」を唱えたのだと思う。

(日本の技術力や高度な労働力はどの国も欲しかった筈だから、誰もが隙があれば日本を支配したいと思うのは当然で、「非武装」であれば「中立」は不可能な事ぐらいは、幾ら何でも「見える人には見えていた」と思う。)

しかし、幸いにも東西両陣営は戦争を回避し、その内にソ連は崩壊し、中国は資本主義国とあまり変わらない国になる方向に向かいつつある。このような状況下で、現在の日本にとっての「今そこにある危機」は、要言すれば下記に尽きると思う。

1)超大国になった中国が拡大主義を露わにして、「太平洋は米中で二分するに足るだけ大きい」とまで発言している(という事は「大平洋の西半分は中国が支配するから、日本はその中で中国の言う通りにしていなさい」と言っているに等しい)。核兵器を持ち、サイバー攻撃力も強化しつつある隣国にここまで言われて、且つ、現実に尖閣列島の周辺では何度かの挑発行為にも晒されているのだから、これを「安全保障上の脅威」と感じない人は少ないだろう。

2)元はと言えば「貧困が原因」だとは思うが、「自由」「民主」「人権」といった価値観を共有しない勢力が、現在地球上の各地で過激なテロ活動を頻発させており、これが世界市場を舞台とした自由経済体制の円滑な運営を阻害する恐れが出てきている。彼等と対決する事は、今や自由世界の各国の共通の目標となっており、日本だけが埒外に留まる事は許されない(「世界の警察官」としての役割を米国だけに押し付けるわけにはいかない)。

従って、私の結論は単純明快だ。日本は広い意味での「自衛」と「国際貢献」の為に「ある程度の戦力」を持つしか選択肢はないが、現状では単独で「中国との力のバランス」を取るのは無理であり、従って、「米国との同盟関係の強化がこれと同時に必須である」という事だ。

「集団的自衛権」が必要なのは、これがないと米軍と共同で行う「自衛の為の軍事活動」が円滑に行かない恐れがある事と、日本の防衛に対する協力を求められた米国から、「その見返りとなる金銭以外の協力」を求められれば、特にその理由がない限りは、これを断るのは困難だからだ(元々、全ての契約関係は「双務的」であるのが普通だ)。

そして、この為には、当然「憲法の改正」が必要だと私は考えている。国の「安全保障」とは、国民の「生命」「財産」「自由」「尊厳」を守れる体制を作る事に他ならず、この必要性は何に対しても優先する。「現行憲法に反するからそんな体制は作れない」というのは意味のない議論であり、「もしそうであるなら、その憲法を変える必要がある」というだけの事だ。

さて、上記の考えには当然「反論」も多いだろう事はよく理解している。従って、当然出てくるであろう以下のような「批判」や「懸念」に対して、あらかじめ逐条でコメントさせて頂く事にしたい。

なお、全てのコメントに共通するものとして、「集団的自衛権は権利であって義務ではなく、従ってこの権利を行使するかどうかは、その都度日本政府が判断するものである」という事をあらかじめ申し上げておきたい。従って「巻き込まれる」という曖昧で受動的な言葉を使うのは適切ではなく、「日本政府が過剰反応をする」という言葉に置き換えられるべきである。

1)中国を仮想敵として軍備の拡張や米国との同盟強化を行えば、これが中国側を刺激し、彼等の更なる軍拡や戦闘意欲の向上を招くのではないか?

 ──古来、利害の対立する二つの集団の間の力学は、「相手が弱いと思えば強硬になり、手強いと思えば慎重になる」のが定石である。残念ながら現在の国際関係では、この定石に従わざるを得ない。

2)最も可能性がある「最悪事態」が「米国と連携しての対中戦争」であるなら、日本が行うべきは、「米国との同盟強化」よりも、むしろ「中国との友好関係構築への徹底した努力」であるべきではないのか? 

 ──これは当然であり、最大限その努力をすべきであるが、現時点では、対米関係を対中関係の下におくわけにはいかない。「日米間」と「日中間」を比較した場合、前者の方が後者より現状では利害対立が少なく、相互補完関係が大きい故である。

3)仮に中国が尖閣列島周辺での日本との衝突は注意深く回避したとしても、南沙諸島では好きなように振る舞い、これが米軍との衝突に繋がった時、日本は集団自衛権の名目でこれに巻き込まれるのではないか? 

 ──このような場合、日本は当然の事ながら後方支援に徹し、間違っても中国軍との戦闘に介入すべきではない。但し、友好国からの要請があれば、後方支援についての協力は惜しむべきではない。南沙諸島で中国が理不尽に覇権を確立するような事があれば、これは日本にとっても大きな脅威となる。

4)朝鮮半島で韓国軍と北朝鮮軍が戦闘状態に入り、米軍が戦闘に参画する事態に発展した場合、日本は集団的自衛権の名目でこれに巻き込まれるのではないか? 

 ──これについても、上記3)と同じ対応をすべき。

5)米国は現状で世界の警察官の如く振舞っているが、それは必ずしも万人の認める「正義」の為だけとは限らず、自国の経済的利益を慮っての行動も多いのではないか? このような米国の利己的目的の達成に日本が利用される事をどうして防ぐのか? 

 ──米国の行動が「正義」とみなされうるかどうかは、日本政府自身が判断するべきであり、日本政府は、場合によれば米国の協力要請を拒絶するだけではなく、むしろ米国をたしなめる役割も果たすべきである。

6)米国が世界の多くの過激なテロ組織から主敵とみなされている現状では、日本が米国を助けるケースが増えれば、日本も主敵の一翼と見做され、テロの標的とされる可能性が高まる。

 ──その事を恐れてはならない。日本は、自由と民主と人権を守り抜く決意を固めた「国際社会の一員」として、敬意をもって遇せられるに足るだけの勇気をもって、全ての事に当たらねばならない。

上記について、或いは「総じて好戦的」という印象を持たれる方もいるかもしれないが、それは全くの誤解である。「戦争をしたい人間」など、精神に異常をきたした人でない限り、この世にいるわけはないし、勿論私もそうではない。しかし、冷静に現実を考えると、「真の平和」を勝ち取る為には、このような対応を奨めざるを得ないという事だ。

「真の平和」がリスクをとる事なくして勝ち得られる程、現在の国際社会は甘くはない。「戦争ハンターイ」と叫ぶのは容易だし、ほのぼのとした「童話」で平和を語るのも容易だが、「シュプレヒコール」や「童話」では「愛する人たちが悲惨な境遇に苦しむような万一の事態」は防げない。これを防げるのは、よく考えられた現実的な「安全保障政策」だけである。

(追記)

中国について若干追記したい。「中国は平和を愛好する国家だから、こちらが彼等の脅威とならない限り、彼等が我々の脅威となるわけはない」という人たちが必ずいるだろうからだ。

ISISのような特異な国を除けば、どんな国でも勿論平和を望む。しかし、それには「相手国が自分たちの期待に沿った行動をとるなら」という条件が常に付く。中国の場合は、取り敢えずは「日本が尖閣列島を含む海域を中国の領海と認めれば」という事が条件になるだろう。

「それが平和への唯一の道なら、その程度の事は認めればいいではないか」と考える人たちが日本人の中には必ずいるだろう。しかし、これが恒久平和の為の「十分条件」であるという保証は全くない。俗に「味をしめる」という言葉があるように、条件というものは、一つ譲歩すれば次々にエスカレートするのが世の常だ。

中国という国は、歴史上、
1)漢民族が頂点に立って国が統一されている時代
2)何れかの異民族が頂点に立って国が統一されている時代
3)小国が分立して互いに争っている時代
三つの時代に分かれる。

現在は1)のカテゴリーの時代で、「秦」「漢」「明」に続く稀有の時代だ(「晋」や「宋」の時代は短かった)。「漢」や「明」の時代には「中華思想」に突き動かされて盛んに外征を行い、版図の拡大を図っているので、現在の習近平主席が「中華の夢」などという言葉を使えば、誰でもがそこに同じ意図を感じ取ってしまう。因みに、鄧小平氏でさえ、国内の覇権主義者達を抑えるのに、「力が十分でないうちは、韜晦して(誤魔化して)おけば良い」と言っている。

日本の軍備強化を危惧する人たちの多くは「人間は『武装』という『玩具』を持てば、必ずこれを使いたくなる」と言っており、これには一面の真実があるが、中国の場合はこの危険がもっと大きい。「国内で権力を確立しようと思えば、軍の掌握が不可欠であり、軍を掌握しようと思えば、彼等の軍備強化志向に迎合せねばならず、軍備が強化されれば、これを民衆が喜ぶようなやり方(国威発揚)で使いたくなる」という図式がぴったりと成立してしまうからだ。

もはやこの地球上のどこにも、中国本土に攻め込もうなどという無謀な事を考える国はないだろう。ウィグルやチベットの独立を支援する為に介入しようとする国があるとも思えない。一方、中国は、ロシアのクリミアへの軍事介入に倣って、多数の漢民族が住むシベリア南部を版図に収める企図をいつかの時点では持つかもしれないが、ロシア軍がなお精強な現時点では、敢えてそのような冒険は試みないだろう。

結局、問題は海洋だ。「海洋資源の確保」「シーレインの確保」「米国等による海上封鎖のリスクの排除」という三つの目的の為に、かつての「鄭和の大艦隊」の復活を夢見て、中国がなりふり構わず海軍の強化に走る事は十分あり得るし、これを非難するのも難しい。こうなると、同様の立場にある日本としても、結局は「彼等とのバランスを保つための海軍力の強化」を志すしかないわけだ。

残念ながら、将来「世界連邦国家」の理想が実現し、「国家」という概念が消滅するに至るまでは、自国の独立は自分で守るしか道がない。