安岡正篤先生は御著書『知命と立命』の中で、「なんでも研究をしてみたら無限の意義、作用、効能がある。決して無用な物はない。“天に棄物なし”という名言がある。いわんや人間において棄人、棄てる人間なんているものではない」と述べておられます。
率直に申し上げれば、人の上に立つ者として、ある程度の年齢まで一つの悪しきスタイルでやってきた人を変えるのは、非常に難しいことだと思います。但し先生が言われるように「棄人」はいないわけですから、正に「美点凝視」ということが大事です。
『論語』の「顔淵第十二の十六」に、「君子は人の美を成す。人の悪を成さず。小人は是れに反す」という孔子の言があります。
つまり所謂「君子」の器の上司は、美点凝視にこれ努めその「人の美」を追求し、褒めてやりながら益々それが良きものになるようサポートする中で、自然と悪い所を目立たなくさせようとする人です。
逆に所謂「小人」の器の上司というのは、「人の悪」だけを見るばかりですから、部下の欠点も直らなければ上司・部下の関係もゼロになるわけで、そういう人になったら終わりと言うしかありません。
之は昨年6月のブログ、『「まともな上司」は人の育て方を知っている』でも指摘した一部ですが、上司は部下の短所を目立たなくさせ部下に自信を持たせてあげることで、部下を良き方に向かわせなければなりません。
更には自分自身に対しても同様に己の長所が何かと探り当て、それをもっと伸ばそうと全力投球する過程で自然と短所が良き形に変わってきたり、それ自体長所に転ずることも出来てくるのではという気もします。
しかし同時に森信三先生も言われる通り、自分自身の精神上の長短の問題と知識・技能上のそれらとは分けて考えねばなりません。即ち自身の精神上の問題に関しては、長所を伸ばすよりも短所を直す方が、より長所が伸びることに繫がって行くと思います。
自分の弱点を補うべく日々の仕事・体験の中で一所懸命に努力し、事上磨錬して自分自身を磨いて行くのです。そしてその努力を支え自身の成長に繋げて行くため、時空を越えて精神の糧となるような書物を深く読み込み、私淑する人を得ることが重要なのです。
例えば、冒頭挙げた私が私淑する安岡先生の書を読みますと、東洋哲学は言うに及ばず西洋哲学から医学・科学の話、あるいはその時々の政治や世界の動向にまで話が及んで行きます。先生は人生観、世界観から死生観まで、あらゆる面で卓越した知識を持たれ、それをベースとした見識によって、自らの善悪の判断基準をつくり上げておられます。そして正しいと判断された事柄を勇気を持って実践され、多くの人を導いてこられたのです。
こうした方の御本に虚心坦懐に教えを乞い、片一方で事上磨錬しその学びに実践・対峙して行く中、自分はどうかと常に省みつつ自分を修正して行くのです。そうした努力の積み重ねの結果として私利私欲が段々と減ぜられ、ゼロにはならないまでもかなり抑えられるようなってきます。そうなってきたならば、次第次第に世のため人のためという発想が芽生えてき、勇気を持って実行しようという行動に繋がって行くのです。
結局短所にしろ誰が直すのかと言えば、自分で気付き自ら反省をし、自分自身が直して行く以外ないのであって、人間とは正に自らの意志で自らを鍛え創り上げて行く「自修の人」であるわけです。
「お互い人間というものは、自分の姿が一ばん見えないものであります。したがって私達の学問修養の眼目も、畢竟するに、この知りにくい自己を知り、真の自己を実現することだと言ってもよいでしょう」と、森先生は言われています。
また、「本当の自分を知り、本当の自分をつくれる人であって、初めて人を知ることができる、人をつくることができる。国を知り、国をつくることもできる。世界を知り、世界をつくる事もできる」と、安岡先生は言われています。
『自己を得る』こと程難しきはなく、またそれが如何に重要であるかは、古今東西を問わず先哲が諭していることです。自己を確立するに、心奥深くに潜む自分自身を如何に徹見するかに掛かっているということです。中国古典で言う「自得」あるいは仏教で言う「見性」こそが、より良き人生を送る鍵であり事柄全ての出発点になるのです。我々は精神の糧となる古典を読むことで、様々な気付きを与えられるのです。
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