江沢民はなぜあれほど反日記念館を作り日本に執拗に謝罪を求めたのか?
江沢民の実父江世俊は、日本占領下で日本特務機関に協力していた。一方叔父の江世侯は中国共産党の幹部で若くして戦死。江沢民が叔父の養子となったのはキャリア・ロンダリングの疑いが濃い。そうした出自へのコンプレックスが江沢民を反日に駆り立てたのではないか。この辺り朴槿恵大統領と父親朴正煕の関係を彷彿させる。
江沢民と胡錦濤の暗闘
中央軍事委員会主席というポスト
江沢民は総書記と国家主席引退後も2年近く中央軍事委員会主席の地位に留まり、院政をしいた。これは鄧小平にならったのだろう。鄧小平は復活後、総書記にも国家主席にも就くことはなかったが、中央軍事委員会主席の地位は長く放さなかった。
なぜこのポストがそれほど重要なのか。それは中国共産党の歴史をさかのぼれば理解できる。中華人民共和国は、蒋介石の上海ク-デター後国民党との内戦、日本との戦争そして日本降伏後再び国民党との内戦を経て誕生した政権である。ということは1949年建国以前共産党トップの最も重要な任務は戦争指導であった。中国の公認近代史では、毛沢東が1935年に遵義会議で軍権を掌握した時に共産党の最高指導者となったとしている。今の共産党政権は「銃口から生まれた」のである。
そうした沿革があるため、今でも中央軍事委員会主席の地位は非常に重い。このポストに制服組の軍人が就くことはない。これが中国流のシビリアン・コントロールと言えるだろう。この地位には定年制が適用されないために院政をしくには都合のいいポストだ。
そもそも胡錦濤が江沢民の後継者になれたのは鄧小平の遺命によるもので江沢民の意思によるものではない。江沢民の意中の後継者は曽慶紅であった。そのため胡錦濤が総書記に就任した後も二人の関係はぎくしゃくする。
例えば江沢民が胡錦濤の次のトップに据えたかったのが上海市長陳良宇。ところが陳良宇は2006年汚職で失脚。そのために胡錦濤の子飼い李克強が最有力後継候補に浮かび上がる。
2007年の北戴河会議で江沢民は前月党内選挙の結果(習近平がトップ)を尊重せよと主張する。更に香港で出版された雑誌の切り抜きを掲げて「李克強は天安門事件の首謀者の一人と関係がある」と爆弾発言をした。これが次期トップに習近平が決まり、李克強の目がなくなった瞬間である。
曽慶紅は山東省の国有企業の株式(時価1兆3千億円)を660億円で友人の会社に売却し裏で賄賂を受け取った。胡錦濤がこの情報をマスコミにリークし曽慶紅は深く傷つく。この後胡錦濤は定年内規を68歳に引き下げ曽慶紅を引退に追い込んだ。
2012年大方の予想に反する胡錦濤の完全引退は、江沢民との抱きあい心中であった。
2012年の北戴河会議で胡錦濤の威信は側近令計画夫人の金銭スキャンダルとその息子の交通事故で大きく傷ついた。そのため李源潮、汪洋を常務委員にできず、自らに近い常務委員は李克強一人になってしまった。
常務委員人事で思うようにならなかった胡錦濤は、この体制では院政もままならないと考え、江沢民との抱きあい心中を図って新たに内規を定めた。
一、引退した政治家は政治に口を出さない(院政の禁止)。
二、中央軍事委員会主席にも定年制を適用する。
中国の政争でよく見られるのは、本人ではなく先ずその周辺人物を失脚させることで本人の力を削ぎ落とすやり方。「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」というわけだ。
「習近平―共産中国最弱の帝王(矢板明夫著)」という書名の本があるが「最弱の帝王」はどうやら見立て違いのようだ。初めて長老の掣肘を受けないという意味では毛沢東を除き最強の帝王になり得る。鄧小平時代でも、陳雲、楊尚昆等の元老が健在であったし江沢民時代は、鄧小平を筆頭に薄一波(薄煕来の父)、万里等が健在であった。続く
青木亮
英語中国語翻訳者