認知症事故の判決でみたJRの非常識 --- 中村 仁

裁判も1,2審は市民感覚と隔絶


認知症で徘徊していた男性が列車にはねられ死亡した事故で、最高裁の判決がありました。誠心誠意、介護する家族側には、鉄道会社に対する賠償責任がないとする極めて常識的な内容です。市民感覚からすると、なぜ最高裁まで争われなければならなかったか、不思議でなりません。

b7145e17809030cf787485c08386715b_s最高裁の判断を当事者、関係者は歓迎しています。われわれ素人が判断を下せと言われても、同じような結論を出していたでしょう。最高裁に至るまでの段階で、なぜこんなにもめていたのか分りません。途中の段階がおかしいのです。

まず原告のJR東海の非常識に憤慨します。死亡したのは当時91歳の男性で、介護していた妻は現在93歳ですよ。介護や監督義務が不十分であったということではないとのことです。それなのに列車の遅延に伴う損害費用など720万円の賠償請求を求め提訴していました。

血も涙もないのかJR東海


老老介護の遺族に対する血も涙もない仕打ちとはこのことです。JRのトップも担当者も、従来の慣例を杓子定規にあてはめて対応をしていればいいと、安易に考えたのでしょうか。なんども訴訟関係の報道に接していて、JRはひどいことをするものだと、私は怒りを覚えていました。自分たちが同じ目にあったらどう考えるだろうかという想像力が貧困でした。

憤慨したのは訴訟を担当した名古屋地裁、ついで名古屋高裁の判決に対してもです。民法714条の監督義務者の責任規定(責任能力のない人の賠償責任を遺族などに求める)、配偶者の監督義務規定をこれまた単純にあてはめたのは問題でしたね。

地裁は長男にも認知症老人の監督義務があるとしていました。高裁は妻だけには監督義務があるとし、賠償金額を360万円に引き下げました。監督義務が2人ではなく1人だから、半分にしたというのも杓子定規もいいところですね。2で割るというのはあまりに機械的です。

事情もよく聞かないで賠償請求か


最高裁は、日常的な接触の程度、認知症の人の状況、介護の実態などを総合的に考慮すべきだという判断です。長男の妻は近くに転居してまで、面倒をみていたというではありませんか。長男は週6回のデイサービスを決め、見守り体制を整えていたそうです。十分すぎる監督、介護体制ですよ。ここまで尽くして死亡事故にあったのですから、賠償請求をすべきではありません。

事情を聞けば、JRも最高裁で指摘された程度のことは分ったはずです。そんなに難しいトラブルではなかったと思いますよ。地裁、高裁も民法などの法律には詳しくても、総合判断する社会的常識は欠けていたのです。

原発問題にせよ、教育問題にせよ、しばしば地裁、高裁でおかしな判決がでて、後にひっくり返ることがあります。裁判官の判断能力を疑いたくなるのです。今回の訴訟をみると、妙な判決が出る理由が分りますね。

最高裁でやっと結論なんて情けない


では事故をめぐるトラブルを防ぐにはどうしたらよいか、事故が起きてしまった時の処理費用はどこが負担すべきか。鉄道側の事故防止、安全対策の強化、さらに個人賠償責任保険の充実、鉄道会社自身の保険加入などいろいろあるでしょう。認知症の人の鉄道死亡事故は年20件以上だといいます。賠償責任をどう考えるのかの問題が残ります。

また、メディアの報道をみていると、「最高裁判決は家族の救いに」、「家族の責任判断では、介護の実情に配慮」、「賠償責任の議論を深める契機に」など、おおむね判決を評価しています。私が疑問に思うのは、実情無視のJRの冷たい措置、地裁と高裁の誤った判決を、なぜメディアは批判しないのかということです。最高裁が常識を持っていてくれたからいいようなものの、最高裁に持ち込まなければ、最終結論を出せないなんて、情けないことです。

今回の紛争を教訓にして、鉄道会社は事故の処理費用、遺族への請求額、遺族の支払い額などの実態を明らかにすべきでしょう。さらに鉄道飛び込み自殺も年600件を数えます。遺族に損害賠償を請求しても、貧困が原因の場合は支払いできません。どういう結末になっているのか、これも公表してもらいたいですね。

中村 仁
読売新聞で長く経済記者として、財務省、経産省、日銀などを担当、ワシントン特派員も経験。その後、中央公論新社、読売新聞大阪本社の社長を歴任した。2013年の退職を契機にブログ活動を開始、経済、政治、社会問題に対する考え方を、メディア論を交えて発言する。


編集部より:このブログは「新聞記者OBが書くニュース物語 中村仁のブログ」2016年3月2日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、中村氏のブログをご覧ください。