誰のために学問をするのか

先々月28日アゴラに『必要な「学者」の再定義』という記事がありました。当記事で筆者の松本徹三さんは、『「学者」と呼ばれるに足るだけの必要最低限の条件は、突き詰めれば、「如何なる場合も真理を追求する」という姿勢であろう』等々の指摘を行われています。


本テーマで私見を申し上げますと、私は昨年8月に書いたブログ『何のために学問をするのか』の中で、孔子にとっての学問の本義とは「命を知り、心を安らかにする」と共に「人生に惑わないために学ぶ」ことだと述べました。

その本義が一体何かと換言すれば、それは荀子の言葉で「夫れ学は通(つう)の為に非らざるなり。窮して困(くる)しまず、憂えて意(こころ)衰えざるが為なり。禍福終始を知って惑わざるが為なり」というものです。

つまり荀子は「何のために学問をするのか」との問いに対し、「社会的な成功の為に行うのではない。窮地に陥った時でも、苦しんだり意気消沈したりすることをなくす為である。我々に齎される災いや幸福の原因や因果関係をよく知ることが出来れば、困難に直面した時でも惑うことはなくなる」と答えているというわけです。

孔子も学問をすることで心安らかになり、色々な事柄で惑わぬようなって行く人間になる為に学問はすべきだと考えていました。吉田松陰先生もまた「およそ学をなすの要は、おのれが為にするにあり。おのれが為にするは君子の学なり。人の為にするは小人の学なり」と言われています。

古のまともな学者というのは、自分のために学を為していたわけです。それに対して現代の学者の多くは、私利私欲に端を発したある意味での売名的行為や金銭的利得のため、学を為しているかの如く見受けられる節が多々あるように感じられます。

『書経』の中に「自靖自献(じせいじけん)…自ら靖んじ自ら献ずる」という言葉があります。「人の為に自己を献ずる」というでないとすれば、御用学者の類の域を出ないということだと思います。

その逆には例えば、小生のフェイスブックで先月2日にも御紹介した京都大学 iPS細胞研究所の所長である山中伸弥教授のように御自身の研究活動、学を通じて世のため人のためという高い志が有り有りと見えている御方も中には勿論おられます。

今日本の学者先生というのは極めて専門バカになっているが故、一般常識の著しい欠如が見られたり教養の範囲が極度に狭く、結局この社会に何ら役立たない学をやっている先生が結構いるようにも思います。

その昔、中国では儒学というものが国の統治の中で取り上げられ、漢の武帝が儒教を国教と定めました。そして官吏に就かんとする者は、所謂「科挙」に合格すべく「四書五経」を一生懸命に丸暗記しました。しかし、そうした学というのは殆ど社会生活で、役に立つものではなかったのです。

結局、自分という人間を自らの意志で自らが創り上げ行くために、四書五経に書かれている内容を自分なりに消化し、日常の社会生活の中で日々知行合一的に事上磨錬し続けて行き、その学びが本当に活かされてくるのです。

学者先生も様々ですが、私には取り分け自然科学以外のフィールドで多数、好い加減な人がいるように感じられます。誰がため何がために学問をやっているのか不可解な先生方が、最近は非常に多いような気がします。昨年どれ程情けない存在かが世に明らかになった憲法学者の見解などは、正にそういうものだったように思います。

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