「ワーカホリック」チャーチルの文章制作工場を訪ねる

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 (チャーチルの自宅チャートウェル邸)

現ロンドン市長ボリス・ジョンソンが書いたウィンストン・チャーチル(1874年生-1965年没)についての本『チャーチル・ファクター』の翻訳を、英政治家の回顧録の翻訳で豊富な経験を持つ石塚雅彦氏と筆者が担当した。3月末の出版(プレジデント社)にちなみ、チャーチルの自宅チャートウェル邸を訪ねてみた。

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第2次世界大戦当時の英国の首相、ウィンストン・チャーチル。ナチス・ドイツによる快進撃に次々と欧州他国が倒れてゆく中、島国英国の運命も危なくなった。ヒトラーとの交渉を拒否し、最後まで戦うことを宣言したチャーチルとともに、英国は戦時を切り抜けた。戦後数十年を経てもその功績の重要さは変わっていない。

チャーチルは長年、政治家兼作家という2足の草鞋を履いた。膨大な量の演説原稿や草稿を書く(といっても口述筆記である)、驚くほどのエネルギーの持ち主だった。よく飲み、よく食べ、葉巻をふかし、昼夜問わず口述筆記をさせた。今でいえば「ワーカホリック」と言ってもおかしくはなかった。

『チャーチル・ファクター』によれば、大量の文章を生み出したチャーチルには文章生成のための工場があった。それはチャーチルが妻クレメンティーンや子供たちと暮らした、ケント州にある自宅チャートウェル邸だった。

1920年代にチャートウェル邸を買ったチャーチルは40年近くをここで過ごした。戦時中の数年間は警備上の問題から別のところで暮らしたが、それでも何度か泊りがけで訪れるほど愛着ある場所だった。

ロンドンから車で2時間弱で行けるチャートウェル邸を訪ねてみた。

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(邸宅までの道で。上下とも)

 

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チャートウェルには邸宅のほかに森、池、複数の庭がある。邸宅の裏には広大な公園が広がる。私が訪れた日は土曜日で、小さな子供連れの訪問客が芝生のあちこちで持ってきた食べ物を広げ、ピクニックを楽しんでいた。

1921年、初めてここを訪れたチャーチルはケント州の森林地帯からその先まで見渡せる、見晴らしのよさに感銘を受けたという。当時は財政的に余裕がなかったものの、遠縁から遺産が入り、第1次大戦の歴史を書いた『世界の危機』(全4巻)の第1巻目の前払い金が入ってきたことで、購入が可能になった。

ビジターセンターで入場料を払い、邸宅に入るためのチケットをもらう。時間制になっているのは、入場者が多すぎて、一度に入ってしまうと邸宅がいっぱいになってしまうからだった。

邸宅までの道を歩くと、左手に広がる公園が大きな解放感を感じさせる。小川があり、小さな池もあった。池の中には赤い鯉が数匹泳いでいる。池の上には向こう側に渡れるように石の板がいくつか並べられていたが、私が訪れた日には手前に縄がかけられ、渡れないようになっていた。チャーチルはこの鯉を見たり、石の道を渡ったのだろうな、と思った(実際に、チャーチルが石の上に立つ写真が邸宅の中にあった)。

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(邸宅の正面)
入場の時間になったので、列に並んで、邸宅の中に入ってみた。

1つの1つの部屋は想像していたものよりも、ややこじんまりしていたが、逆にそこが普通の家のようで、実際に人が住んでいた感じがした。世間的にどんな重要な職についていようと、誰にでも家庭があり、生活がある。

邸宅内での写真撮影は禁じられている。家具や置物、写真などが個人のもので、現在チャートウェルを管理しているナショナル・トラストの手にはないからだという。ナショナル・トラストとは歴史的建築物の保護を目的として英国において設立されたボランティア団体だ。

部屋の1つに「ライブラリー」(図書室)と呼ばれるものがあった。四方の壁が本でおおわれている。ソファーがいくつか置かれている。ここがチャーチルの文章生成のための「工場」の1部となる。チャーチルはここに数人のリサーチャーを置いていた。口述筆記をするチャーチルが事実を確かめたい時、リサーチャーに命令を下す。見つかり次第、リサーチャーの一人が資料を持って、上階にあるチャーチの書斎に持ってゆく。

このリサーチャーたちは、『チャーチル・ファクター』によれば、「チャーチルの個人的な検索エンジン、グーグル」だった。図書室に収納されていた本は6万冊に上ったという。

「スタディー」(書斎)に入った。ここの壁も本でいっぱいだった。座って書き物をするためのデスクのほかに、立ち机が壁の一方に向かう形で置かれてた。資料を持ってこの部屋に入ってきたリサーチャーは、チャーチルがもし立ち机に向かっていればその右半身を真っ先に視界にいれることになる。

口述筆記をタイピストに打ってもらう形で文章を生み出したチャーチル。本を31冊書き、そのうちの14冊は書下ろしだった。議員としての経歴は64年に及んだが、毎月、何十もの演説、発言、質問を行った。公表された演説だけでも「18巻、8700ページにのぼる。記録や書簡を100万点の文書」になったという(『チャーチル・ファクター』)。

書斎の右端のドアの先にはチャーチルの寝室がある。ここは公開されていない。「あまりにも小さいので、人が入れない」とガイド役の女性が言う。

『チャーチル・ファクター』によれば、小さなバスルームと背の低いベッドがあるようだ。西欧では夫婦は1つの寝室を使うのが基本だが、チャーチルと妻クレメンティーンの寝室は別だった。チャーチルは自分の寝室にタイピストを入れ、演説用の文章をタイプしてもらうことがしょっちゅうだった。まさにワーカホリック、仕事中毒である。

歩を進めて、ダイニング・ルームに入る。窓が大きく、太陽の光がたくさん入ってくる。思ったよりは小ぶりな部屋で、ディナー・パーティーをここで開けば、数人しか入れないだろう。チャーチルはあえてそうしたようだーつまり、家族同士であるいは本当に親しい友人だけの会食の場としてここを使ったのである。

邸宅を出て先に進み、チャーチルのアトリエ(「スタジオ」)に入る。政治家・作家のチャーチルの趣味はレンガ積みと絵を描くことだった。四方の壁にチャーチルの絵が飾られている(数枚、ほかの人が描いた作品もある)。

チャーチルは1953年のノーベル文学賞を受賞しているが、絵はどれぐらいのレベルだったのだろうか?

チャーチルの絵画をほめる人はたくさんいるが、その一方で、あまり高くは評価しない人もいる。いずれにしても、チャーチルは絵を描くことが趣味であったし、スタジオにいる時間を楽しんだーこれが最も重要なことだろう。

チャーチルが絵画を始めたのは一種の気晴らしだった。第1次大戦時にダーダネルス海峡進攻作戦(1915年、英仏の連合軍がダーダネルス海峡入口のガリポリ要塞を攻撃・占領する作戦を立てた)の失敗が響いて海相を罷免され、閑職に左遷された頃からチャーチルは友人に絵を描くことを勧められる。美術学校に通ったり、絵を正式に習ったりはなかったが、友人たちのなかに絵描きが何人かいた。アドバイスを受けながら、チャーチルは作品を生み出してゆく。多作な画家だった。

スタジオの中のガイドの説明によると、「チャーチルは自分の作品に対して、常に謙虚な心を持っていた。『大したものではないのです』、と。このため、チャーチルは基本的に自分の作品に名前を入れなかった」という。

画家としては「特徴がなかった」とガイドは言う。「例えばモネを思い出してください。絵を見れば、ああこれがモネだとわかりますよね。チャーチルにはこれがない」。

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(チャーチルがこの壁の一部を作ったという)
スタジオ出て庭の一つ「キッチン・ガーデン」の方に進むと、赤れんがの壁がある。この壁の一部はチャーチルがレンガ積みを手伝ってできたそうだ。

4つに分かれたキッチン・ガーデンを縦に区切る形で作られたのが「ゴールデン・ローズ・アベニュー」だ。私はここでどうしても見てみたいものがあった。

アベニューの真ん中あたりに日時計があり、この下にクレメンティーンがバリ島から持ち帰った鳩が眠っているという。追悼の詩もクレメンティーンが選んだという。

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(日時計は緑のシートで覆われていた)

行ってみると、日時計の台座には確かに「バリ島の鳩、ここに眠る」と書かれてあった。しかし、日時計の部分が緑色のシートで覆われていた。「寒さ除けだろうね」とそばにいた訪問客が言う。

この鳩はクレメンティーンにとって、特別の意味を持つ。

相思相愛が死ぬまで続いたチャーチル夫妻。しかし、ワーカホリックで常に自分の都合が最優先の夫チャーチルに妻は時として耐えられない思いをいただいたようだ。そこで、1934年から35年にかけて、クレメンティーンは長期間の大きな旅に出た。

旅先のバリでボートに一緒に乗った男性からクレメンティーンは鳩をもらった。その鳩をお土産として持ち帰ったクレメンティーンは鳩が死ぬと、その埋葬場所としてアベニューのど真ん中を選んだのである。

クレメンティーンとこの男性が不倫関係にあったのどうか。『チャーチル・ファクター』の書き手ボリス・ジョンソンは、何があったにせよ、「チャーチルはこの件について知って」いた、として、「クレメンティーンと夫との愛情には全く影響を与えなかった」と結論付けている。

鳩の日時計ばかりではなく、邸宅の敷地内には「ペットの埋葬場所」というコーナーがあった。また、「蝶の生育場所」というコーナーも。

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(チャートウェル邸に近い村のパブの壁にあった似顔絵)
チャートウェル邸の敷地内を歩いていると、緑色の芝生がどこまでも広がる様子が目に入る。遠くに見える森が広大さを実感させてくれる。ところどこにある池、湖、スイミング・プール、ハーブがたくさん植えられているキッチン・ガーデン、木々の配置、アトリエなど、ここで暮らしたチャーチル家の人々がくつろぎ、会話し、食事を楽しんだ様子が想像できた。

しかし、ある家族が幸せだったかどうかは外から想像するだけではわからない。

外交官富田浩司氏による名著『危機の指導者チャーチル』(新潮選書)によると、クレメンティーンと子供たちの関係は「チャーチルが彼らを甘やかす分、難しいものとなった」という。クレメンティーンにとって「一番手がかかる子供はチャーチルであり、彼の面倒を見た後には子供たちにきめ細かな注意を払う時間も気力も残されていなかったのが実情である」。

夫妻は5人の子供を設けたが、3女のマリーゴールドは旅先でインフルエンザをわずらい、3歳の誕生日を迎える前に命を落とす。末娘のメアリーをのぞき、ほかの子供たちは「少なくとも外見上は」、大人になってからの人生が「幸福なものであったとは言い難い」と富田氏は結論付けている。長女のダイアナは自殺し、長男のランドルフは心臓発作で57歳でこの世を去った。次女のセーラは夫が自殺の憂き目にあう。

メアリーは政治家のクリストファー・ソームズと結婚し、5子を設けた。母クレメンティーンの伝記を書き、これが高く評価されている。

チャーチル家の生活ぶりが今でも迫ってくるチャートウェル邸。チャーチルに関心のある人にとっては、実り多い訪問場所だ。


編集部より;この記事は、在英ジャーナリスト小林恭子氏のブログ「英国メディア・ウオッチ」2016年4月7日の記事を転載しました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、「英国メディア・ウオッチ」をご覧ください。