北の「主体思想」と南チロル問題

オーストリアの極右政党「自由党」のシュトラーヒェ党首はイタリア日刊紙「ラ・レプッブリカ」とのインタビューの中で、オーストリア側がイタリアと繋ぐブレンナー峠の閉鎖を決定したことに対し、「あくまでも緊急解決策だ」と強調し、欧州連合(EU)の域外国境線が十分保護されず、イタリア当局が多数の移民を密輸業者のようにわが国に送り込み続けている限り、国境線は安全とはいえない。レンツィ首相はドイツのメルケル首相と同じで移民者を招いている。だから、われわれは自国を守らなければならないのだ。わが党は欧州のイスラム化と戦っている。入国する難民は教育を受けた人間ではなく、無教育の人間が多く、難民を装ってテロリストが欧州に入国しテロを行っている」と指摘し、イタリアとの国境の警備強化の必要性を説明している。

ここまでの発言はオーストリア政府の立場とも一致する内容だが、その後の発言が物議を醸した。シュトラーヒェ党首は南チロル問題に言及し、「南チロルとチロル州の併合問題は住民自身が決定する問題だが、チロルの過去の痛みを癒し、チロルが統合されることを願う」と述べ、イタリア側に大きな波紋を投じたのだ。

南チロル問題といっても日本の読者には聞きなれないテーマかもしれない。南チロル問題とはその自治権問題(現在のボルツァーノ自治県)だ。チロルは地理的には北、東、南の三つに分かれ、北と東はオーストリアのチロル州に帰属し、南チロルはナポレオン失脚後のウィーン体制(1815年)でオーストリア領となったが、第1次世界大戦後の1919年、サン=ジェルマン条約によって強制的に北チロルから分断されてイタリアに併合された。南チロルの住民はドイツ語を話し、オーストリアのチロル州への併合を願う声も聞かれる。シュトラーヒェ党首はオーストリアとイタリア間の領土問題に言及したわけだから、イタリア側から強い反発が出るのは当然だ。

同党首の発言が報じられると、レンツィ伊首相は5日、ローマでメルケル首相と会談後、オーストリアのブレンナー峠の閉鎖について、「不必要なことであり、(難民政策の)目標に一致しない。今年に入って約2万6000人の移民が南チロルに入った。その数は前年同期比で数千人多いだけだ。オーストリア側が主張するように難民の殺到現象は生じていない」と説明した上で、南チロル問題発言に言及し、「彼の発言など意味がない。ポピュリストの発言に過ぎない。南チロルの平和を破壊するだけだ。彼は歴史から何も学んでいない」と一蹴したという。

興味深い点は、南チロル問題にあの北朝鮮が深く関わってきたことだ。北朝鮮の金日成主席の「主体思想」は1970、80年代、欧州の進歩的知識人に大きな希望を与えた。欧州各地で「主体思想研究グループ」が創設されたが、その主要拠点となったのはチロル州のインスブルック大学だった。インスブルック大学の教授たちの間には一時期、平壌詣でがブームとなったほどだ。

例えば、同大学のハンス・クレチャツキ教授はオーストリア国民党単独政権下で法相を務めた人物であり、「国際主体思想研究グループ」の会長にも就任したことがある。欧州知識人の最高峰の一人である同教授は当時、「南チロル問題の解決の道として、民族の主体性と独立性を鼓舞する金主席の主体思想に心が惹かれる」と述べている。

北朝鮮の国民経済は70年代から80年代にかけて韓国経済を凌ぐほどだったから、主体思想はそれなりに説得力があったが、旧ソ連・東欧諸国の共産政権崩壊後、北の国民経済は外部からの支援なくして存続できなくなっていったことは周知の事実だ。1990年以降、オーストリアの進歩的知識人たちの主体思想への関心が急速に冷えていったことはいうまでもない。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年5月8日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。