ヒトラーにはもう一人の弟がいた

長谷川 良

オーストリア通信(APA)に興味深い記事が発信されていた。「(ナチス・ドイツの指導者)アドルフ・ヒトラーに弟がいた」というタイトルが付いていた。ヒトラーは1889年4月20日、オーストリアのオーバーエスタライヒ州のブラウナウに生まれたが、ヒトラーにはもう一人の弟がいたという。ブラウナウの歴史家フローリアン・コタンコ氏(Florian Kotanko)が町の教会文書(寺の過去帳に酷似)の検証から発見したという。同氏によると、「これまでのヒトラー伝記作家たちは間違ったソースから記述してきた」という。地元日刊紙「オーバー・エスタライヒ・ナハリヒテン」紙が31日報じた。

コタンコ氏によると、父アロイスとその3番目の妻クララの間には6人の子供が生まれたが、アドルフは第4子ではなく、第3子だったという。従来の兄弟姉妹の順序は、兄グスタフ、姉イーダ、兄オットー、アドルフ、弟エドムント、妹パウラだが、実際はアドルフはオットーの前に生まれている。すなわち、オットーはアドルフのもう一人の弟ということになるわけだ。

コタンコ氏によると、グスタフは1885年5月17日生まれ、イーダは86年9月23日に誕生したが、前者は87年12月9日、後者は88年1月22日にそれぞれ亡くなっている。

その後、アドルフが生まれた。弟オットーは3年後の92年6月17日に生まれたが、同年6月23日に亡くなった。ブラウナウ教会の古文書では死因は病気、水頭症(Hydrocephalus)と記述されていたという。

コタンコ氏は、「3歳だったヒトラーは弟の死をどのように感じただろうか」、「弟の脳水腫を知っていただろうか」、「弟の死は、その後のヒトラーの身体障害者への受け取り方に影響を与えたか」などの疑問を呈している。ちなみに、ヒトラーは1933年、優性断種法を制定し、遺伝的疾患の根絶を図っている。ナチス政権の優生学思想だ。

オットーの死後、家族はブラウナウから独バイエル州のパッサウに転居している。だから、アドルフの弟と妹、エドムント(94年3月24日生まれ)とパウラ(96年1月21日生まれ)はブラウナウ生まれではない。

それでは、なぜヒトラーの兄弟姉妹の順序が間違って記述されてきたのか。コタンコ氏によると、従来の兄弟姉妹の順はパウラの情報に基づくものだ。彼女は1945年の終戦直後、独バイエルン州で米軍関係者の質問に答えている。コタンコ氏は、「彼女は家族構成を語ったが、誕生直後亡くなった兄オットーについては良く知らなかったのだろう」と推測している。

いずれにしても、コタンコ氏の指摘が正しいとすれば、アドルフにはオットーという水頭症で亡くなったもう一人の弟がいたことになる。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年6月1日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。