松下幸之助さんの御著書で『人間としての成功』ということで、「天分を十二分に発揮できるところに人間として生きる深い喜び、生きがいが生まれてくるのだと思う」と述べておられます。松下さんに拠れば「人間には二つの生命力がある」と言われ、その一つに生物として当然持っている「生きようとする力」、そしてもう一つに「使命を示す力」を挙げておられます。
後者は人間ならではのもので自分に与えられた使命、あるいは天分・天役・天命といったものを示す力が与えられていると言われるのです。自分が天から与えられた使命を自覚し、その使命を果たそうという努力と、それによる成果こそが人間として価値があることではないでしょうか。
世俗的な成功を以て人を偉いとする傾向や、世俗的な「失敗者」を駄目な人だとする傾向は、昔からあります。また一昨年3月のブログでも御紹介した「一貴一賎(いっきいっせん)、交情乃(すなわ)ち見(あらわ)る」ということも、現実に多く見られます。
我々は先ず、世俗的成功を以て人が偉いと判断することを止めなければと思います。人の偉さとは、「人間としての生き方」で判断されるべきことです。「富や地位を得るといった世俗的な成功は本当の成功とは言わない」のです。
『論語』の「顔淵第十二の五」に「死生命あり、富貴天に在り…生きるか死ぬかは運命によって定められ、富むか偉くなるかは天の配剤である」という子夏の言があります。天道はある意味非情かもしれませんが、死生も富貴も天の配剤です。
「楽天知命…天を楽しみ命を知る、故に憂えず」(『易経』)と言いますが、やはり自分の天命を自覚し心の平安を得て後ゆっくりと天を楽しむといった姿勢で生きることが、人間的な成功を齎す上で大事だと言えましょう。
また「人の命は棺蓋うて後に定む」と言われますが、人間としての成功あるいは真価は棺に入って初めて問われるべきものです。棺桶に入る手前になって、「あぁ、自分の人生これで良かった。自ら天命を果たすべく頑張った」という思いで此の世を去れたらば、それは本当に幸せなことでしょう。
あるいは、残念ながら力及ばずして自分の天命を果たせなかった場合でも、その志を次代へと志念を共有している者に引き継いで此の世を去れたらば、それはそれでまた幸せなことでしょう。
21世紀に入って16年が経過しましたが、色々な意味で難しい時代になったと観じます。リーダーの在り方も企業経営も、そして一人の人間としての生き方・心の持ち方も、もう一度その在り方を問い直すべき時に来ているのではと思います。
良い点数を取って良い学校へ進み、良い会社に就職できたとしても、それは必ずしも「人間としての優等生」であるわけではありません。それは今日、高学歴の人間達が起こす様々な不祥事の類を見れば明らかです。
松下さんも言われる通り人間としての優等生になるとは、つまり「自分を素直に生かすというか、自分のもっている素質、性格というものを素直に生かしてゆける人になるということ」です。
勉強が幾ら出来たとしても、人間的に未熟であっては意味がありません。人生における成功と世俗的な成功は無関係であるとの認識を持ち、人間として一流になるべく天よりの啓示を得るその日に備え、日々努力して行くことが大事だと思います。
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