有徳の士たれ

松下幸之助さんは御著書『リーダーを志す君へ―松下政経塾塾長講話録』の中で、次のように言われています――「徳というものはこういうものだ。こんなふうにやりなさい」「なら、そうします」というようなものとは違う。もっとむずかしい複雑なものです。自分で悟るしかない。

之は、ある塾生が「徳性をどのようにして高めていくかという具体的方法がよくわからないのです。(中略)結局、自分で理想みたいなものを持って、それを追求していく態度の中でしか身につけていくことはできないのでしょうか」と問うたのに対し、松下さんが塾長として話された言葉の一部です。

「技術は教えることができるし、習うこともできる。けれども、徳は教えることも習うこともできない」と松下さんも言われている通り、「徳を高めるコツ」など有り得ません。勿論、徳を高めたいと思う所は原点で無ければなりませんが、コツなどといった類ではありません。

私は4ヶ月前『人間力の磨き方』というブログの結語で、次のように述べました――私淑する人物やその人の著作から虚心坦懐に教えを乞うと共に、片方で毎日の社会生活の中で事上磨錬しその学びを実践して行くのです。先達より学んだ事柄を日常生活で日々知行合一的に練って行く中で初めて、人間力は醸成されて行くものだと思います。

何事も先ずは自分でやってみて、それを兎に角がむしゃらにやってみて、己の血となり肉となるものにして行くのです。最近の人達を見ているに、何でも彼んでも所謂HOW TOものばかり読んで、浅薄な知識や浅知恵を簡単に身に付けんとする傾向が、実に強いように思います。

それとは対照的に徳を身に付けるとは、最小の努力で最大の効果を得るといった類とは掛け離れています。之は修養に尽きるものであってコツなど有り得るはずもなく、自己向上への努力を惜しまず死ぬまで続けねばならぬものです。

人物には、そう簡単には中々ならないものです。「人多き人の中にも人はなし、人になれ人人になせ人(上杉鷹山)」という歌がありますが、人物をつくるには人物を育てる人も必要であり、また本人が不断に努力し続けることも勿論必要です。自分を築くのは、自分しかないのです。

前回のブログ『才と徳』の中で私は、「徳が才に勝れているものは、これを引っ括めて君子という型にはめる」と、司馬温公による人物判定の一つを御紹介しました。君子の基本的な条件は、常に高い徳を身に付けているということです。そうした有徳の士であることが、君子の必須条件となるわけです。

しかしながら昨今、例えば周りに責任転嫁する小人が非常に多くいるように感じます。『論語』の「衛霊公第十五の二十一」に「君子は諸(これ)を己に求め、小人は諸を人に求む」とあります。君子はあらゆる事柄の責任を自ら負い、決して誰かに転嫁しません。それをやるのは小人なのです。

我々は君子を目指して日々、人物を磨かねばなりません。前述の如く毎日の社会生活の中で知行合一的に事上磨錬し続け、己を鍛え上げるべく励んで行かねばなりません。そうすることで君子の条件の一つ、「恒心…常に定まったぶれない正しい心」を維持できる人にもなって行けるのではないかと思います。

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