天皇陛下の退位ご意向、そのお気持ちは如何に。。その1

去る8月、天皇陛下は、生前退位のご意向を自らの国民に表明されています。その後のアンケート調査結果をみると、概ねの国民は陛下のご意向を尊重する向きのようで、政府もその方向で法的問題を踏まえて動きだしているようです。

さて、陛下はなぜ、このようなご意向をお持ちなのでしょうか。なぜ、今なのか。なぜ、摂政ではなく退位なのか。そして、なせ、ご意向をお言葉として表されたのでしょうか。甚だ僭越なことかもしれませんが、陛下のご意向、お気持ちの深層を慮りたいと思います。

まず、陛下の「お言葉」から、なぜを考えたいと思います。陛下は冒頭で「戦後70年という大きな節目を過ぎ。。」と述べられており、戦後の節目の時期を意識されています。そして、次の項では、現日本憲法下、現代における「象徴天皇」、天皇制のあり方を考えてきたことが述べられています。そして、最後の項で、「皇室はどのようなときにも国民と共にあり、相たずさえて国の未来を築けるよう。。」という形で、近代における君主像、日本における象徴天皇像を語られています。このようにみるなら、陛下のご意向が、戦後の節目の時期、改めて現代における天皇像を意識した中での退位の意思ではないかと思います。もう一歩踏み込んで云うなら、ご意向は、皇室としての戦後総括の意思表示であり、敗戦の責任を退位という形で表されているのではないでしょうか。

戦争責任という話をすると、いろいろな議論があると思います。今回のご意向を戦争責任と結びつけるのは議論が飛躍しすぎだと感じる方もいると思います。しかしながら、今回のお言葉のみならず、陛下のこれまでのご発言やご訪問された場所を考えれば、先の大戦に対する内なる思いがあると思われてなりません。むろん、陛下は終戦時には幼少期でしたので、直接的に係わる思いではないのでしょう。しかし、天皇家として、或いは父である昭和天皇に代わっての思いをあらわされたのではないでしょうか。昭和天皇は当時の皇太子だった陛下に、敗戦という結果についてお手紙で伝えています。特に敗因については、昭和天皇の立憲君主としての忸怩たる思いがあるように思います。陛下は昭和天皇のその思いやその葛藤を受け止め、父が成し得なかった「退位」をしようと思われているのではないでしょうか。

では、昭和天皇の思いはどういうものであったのか、そのご発言等を踏まえてみていきたいと思います。また同時に、日本の天皇制は戦争の責任を負う君主或いはその立場であるのかどうか。このことをもう少し考えてみる必要があります。

元来、日本の統治スタイルは、明治維新以前の殆どの場合、政治的に主導し軍隊を率いる主体が、天皇から任をうけた幕府や摂政、関白というものでした。共和制や民主主義確立前の支配権や統治の正当性を王権神授によるとするなら、天皇は王権を授ける側であったと云えます。また、更に古く、天皇による統治の時代でも、その仕組みは「しらす」というボトムアップの統治体制であり、西欧における専制君主、絶対君主のような支配する形ではありませんでした。そして、明治維新以後も近代日本の選択は天皇を君主とした立憲君主制です。明治から大正時代の立憲君主体制や統治システムがどのようなものであったかは、本考察の主題ではないので言及しませんが、昭和天皇がこの立憲君主制を強く意識した天皇であったことは、ご自身のご発言等から窺い知ることができます。

このような歴史的な経緯から考えると、天皇制における天皇は、絶対君主制や独裁者によるファシズムのように能動的に戦争を指揮したものではなく、受動的な立場であり、直接的な戦争の責任を問えないという考えに至ります。一般的な通説として、戦争は「軍部の暴走による」ものであり、天皇は上奏された案を裁可するものであり、指揮命令系統のトップとしての命令を発したのではないのだから、天皇にその責任は問えないという解釈があります。もちろん、この見方には異論があり、よく云われるのが、「立憲君主制と云いながら、終戦を天皇のご聖断によって終わらせたのだから、米国との開戦時にも戦争をしないことが出来たのではないか」という見解です。これに対して、昭和天皇は、「若し開戦の決定に対してベトー(「veto」君主の大権をもってする拒否)したとしよう。国内は必ず大混乱になり。。」とクーデターの可能性と更なる悲惨な結末を迎えたという見解を示しています。また、張作霖爆死事件の係る田中儀一首相辞任の時から、「意見は云うがベトーは云わぬ事にした」と回顧しています。(「昭和天皇独白録」より)

その2に続く