スウェ―デンのノーベル文学賞選考委員会もホッとしただろう。しかし、受賞発表後(10月13日)、2週間あまり音沙汰なく、受賞連絡の電話にも本人が出なかったことに苦々しい思いが高まっていた矢先だけに、完全には喜べないかもしれない。
2016年ノーベル文学賞受賞者、音楽家のボブ・ディラン氏は28日、電話をして「受賞を感謝している。本当に驚き、言葉を失ったほどだ」と、不通であった2週間余りのご無沙汰を間接的に詫びたという。
小説家ではない、音楽家の同氏の受賞後の対応にはさまざまな反応があった。「彼は受賞を拒否するつもりだ」というものから、「なんと傲慢な対応だ」といった批判まであった。それにしても「終わりよければ、全て良し」だ。ストックホルムの文学賞選考委員会もなんとか面子が保たれた格好だ。
ところで、根が単純な当方はボブ・ディラン氏が受賞発表後、2週間余りも受賞受諾に関するコメントを控え、雲隠れしていたことに少々驚いてきた。受賞が嬉しければ、即感謝の返答をし、そうではない場合、「ノーベル賞は私の人生哲学と合致しない」と堂々と宣言して、受賞問題に幕を閉じれば良かっただけだ。
しかし、そこは世界のボブ・ディランだ。メディアには分からない特別な事情があったのかもしれない。だから、ここでは何もいえない。いずれにしても、受賞拒否という最悪の事態は回避できたわけだ。
ここでは、同氏が2週間余り、「言葉を失った」ということについて、少し考えてみた。人はどれだけ「言葉を失う」ことができるだろうか、と考えたからだ。
人は過度に嬉しかったり、逆に悲し過ぎた場合、やはり「言葉を失う」ような状況下に陥る。ノーベル賞受賞という想定外の知らせに“現代の詩人”と称賛されるボブ・ディラン氏ですら、その感動、驚きを表現する言葉を見つけ出すことができなかったのかもしれない。
そして感動がなんとか収まった2週間後、ようやく言葉を見つけ出した、というわけだ。ただし、詩人ともいわれるボブ・ディラン氏としては少々体裁が悪いことは歪めない。詩人はいかなる状況下でも言葉を見つけだそうともがくものだからだ。
なお、同氏は29日付の英日刊紙「デイリー・テレグラフ」とのインタビューの中で「自分がノーベル文学賞を受賞するなんて、信じられなかったことだ」とその驚きを率直に述べている。
報道によれば、本人は12月10日の授賞式に参加するかはまだ決めていないというから、最終的にどのような展開となるかは予測できない。
ボブ・ディラン氏が受賞を拒否するのではないか、と推測されていた時、ノーベル賞を拒否したフランスの哲学者・文学者ジャン=ポール・サルトル氏(1905~1980年)の名前がメディアで飛び出していた。ボブ・ディラン氏を“第2のサルトル”というわけだ。
ノーベル文学賞を願っている多くの小説家、文学者がいるなかで、サルトルは1964年のノーベル賞受賞に対し、 「公的な賞は断る」とその独立性、主体性を誇示した。ただし、その数年後、サルトルはノーベル賞選考委員会に電話し、「メダルはいらないが、賞金は頂けるか」とそれとなく打診したという噂が流れたものだ。
ボブ・ディラン氏にはストックホルムの授賞式に参加し、その「言葉を失った」ほどの感動を吐露して頂きたいものだ。できれば、これまた異例だろうが、同氏の初期のヒット曲 Blowin’ in the Wind(風に吹かれて)を歌っていただければ、「言葉を失ってお礼の電話もできなかった」ことへの素晴らしい償いとなるのではないか。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2016年10月30日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。