石原プロモーションの元専務、小林正彦氏が10月30日、虚血性心不全のため亡くなった。享年80。「西部警察」などテレビドラマのスケールを超える作品で世間を驚かせてきたプロデューサーとしての辣腕ぶりはファンにお馴染みで、私もその一人だ。実は、新聞記者だった2007年、一度だけ取材し、まさに「番頭」の異名にふさわしい風格に触れる機会があった(名刺の肩書きも「番頭」だった!)。
近年はリタイアされていたが、もし再会することがあれば、12月発売の拙著「蓮舫VS小池百合子、どうしてこんなに差がついた?」(ワニブックス)でも書いた、ある「仮説」をぶつけてみたいと思っていた。その夢はもうかなわないが、「西部警察」ファンの一人として、そして取材者の立場から追悼コラムを書かせてもらう。
ホテルマン出身の叩き上げプロデューサー
小林氏の略歴は、最初からショービジネスの世界にいたわけでない。ホテルの専門学校を卒業後、日活ホテルに勤務したホテルマンだった。バーでただ飲みをしようとした外国人プロレスラーをねじ伏せたことがきっかけで日活撮影所に左遷。しかし、これが運命を変える。そこでの仕事ぶりが、裕次郎氏の目に止まり、石原プロ入りした。大スターを陰から支える「叩き上げ」として、地に足のついたビジネスセンスがあったのだろう。石原プロの映画興行が失敗して倒産危機に瀕した70年代始め、映画界の衰退とテレビ時代の到来を見逃さず、裕次郎氏を説得して石原プロの「テレビシフト」を推進。裕次郎氏が初の連ドラ出演となった「太陽にほえろ!」のヒットを機に、自社でも連ドラ制作を始め、「大都会」シリーズ、「西部警察」シリーズを成功させた。
しかし根っこには、裕次郎氏や小林氏らの映画人としてのDNAは息づいていた。その一つが、石原プロの見解では「西部警察」のことを「テレビドラマ」ではなく「テレビ映画」と銘打っていること。媒体こそテレビだが、コンテンツは、大和魂でハリウッドに対抗しようという気概を感じさせる。第1回から都心で装甲車を走り回らせ、毎度のごとく激しい爆破シーンで視聴者の度肝を抜いた。現在の都内のロケ事情ではあり得ない光景は、往時を知らない若い世代も驚くだろう。
貴重なエピソードを語った「運河越え」のアクション
そのハイライトとなる有名なカースタントがある。フェアレディZが運河を飛び越えるシーンだ。この撮影は、JR田町駅の南東側にあるボウリング場、東京ポートボウルの前にある新芝運河で行われたのだが、運河の幅は約30㍍。まずは、いかにすさまじかったか、観たことのない人のために動画と写真を引用しておく。
※運河越えの映像は「0:58〜1:02」
このZを運転していたのが、小林氏の戦友とも言える名スタントマンの故・三石千尋氏。私は三石氏が亡くなって1年半後の2007年5月、読売新聞都内版の企画でドラマロケ地の視点から、このシーンをメインに三石氏の功績を取材。長時間のインタビュー取材を快諾してくれた小林氏は三石氏の弟子にあたるスタントマンの方々にまで召集をかけてくださり、私は数々の貴重なエピソードを聴けた。当時の記事から一部引こう。
ネタ探しに悩む小林に、「運河越え」のアイデアを持ちかけたのは三石だった。(略)2人は早速、下見に出かけた。そこで視界に重々しく飛び込んできたのは、運河を囲むコンクリートと水だった。「無理だ。危険すぎる」。難色を示す小林に、三石は首を横に振った。「コマサ(小林)、そんなことはない」。何度話しても三石は折れず、小林は腹を決めた。
(出典:読売新聞都内版2007年5月21日「東京の記憶 西部警察スタント 意地と気迫 運河越え」)
実はこのスタント、「運河越え」自体は成功したが、着地は失敗だった。本来は、護岸工事の看板を突き破ってジャンプし、綺麗なアーチを描くはずだったが、看板の厚さで加速がつかず、バランスを崩し、車体は傾いたまま飛翔した。
車体はどうにか運河を飛び越えたものの地面に激突して転倒(ドラマでは別撮りした綺麗な着地シーンをつないで逃走を続けた設定にしている)。三石氏は圧迫骨折し、40日の入院をする。そのあとの2人のやりとりも私は小林氏から聞き出した。
「バカ野郎!」病床を訪ねた小林に、三石は笑顔で応じた。「失敗しちゃった」。小林には、三石が苦痛をこらえて笑みを作っているのがわかった。(出典:同)
ハリウッドのような防護策が万全ではない。まさに命がけのスタント。小林氏、三石氏を始め、スタッフたちの勇気と気迫が視聴者の共感を呼んだのもヒットの要因だろう。ただ、追悼記事で恐縮ではあるが、ジャーナリスティックに是々非々で論評するなら、危険と隣り合わせだった分、のちに全国各地でロケ縦断をした際、地方局や自治体の受け入れや調整は壮絶を極めたと言われる。
韓国映画界にも認められた一級のカースタント技術
シリーズ中、撮影中の死者は「0」だったとしているのは奇跡だったが、やはりリスクは後年の撮影で表面化する。20年ぶりに連ドラとして復活するはずだった「西部警察2003」の撮影中に若手俳優が人身事故を起こし、作品はお蔵入り。小林氏は安全管理の責任を取り、業務上過失致傷の罪で略式処分を受けた。私がその話も触れると、反省と無念の入り混じった表情を見せていた。
しかし、同時に興味深い話も聞いた。その頃、台頭著しかった韓国の映画界から技術協力の要請があったそうだ。
『シュリ』(1999年)をはじめ、アクション撮影の規模では、日本映画を凌駕していたはずだが、小林氏は「向こうは、爆破シーンは得意だが、カースタントは技術が欲しいようだ」という趣旨の話をしていた。たしかに「西部警察」で見せたような、車の鮮やかな転倒をはじめ、カースタントの技術は芸術的だ。21世紀に入り、日本の都市部では街頭で派手なカースタント撮影許可が下りず、小林氏や三石氏らが培ってきた技術の伝承も困難になりつつある。それだけに、海外展開の可能性に期待を持ったが、その後、目立った動きがなかったのは残念でならない。
都知事選直前の再放送には、裏の思惑はあったのか?
あの取材から10年近く経った。その後、小林氏にお目にかかる機会はなかったが、12月発売の拙著でも収録した都知事選の連載で、私はある「仮説」を立て、その真相(?)を、ずっと聞いてみたいと思っていた。
1999年の都知事選で石原慎太郎氏が出馬を表明する数か月前、「西部警察」の再放送が突如開始。草創期のネット掲示板で、昔を知らない若い世代が作品の感想を語り合うなど、にわかにリバイバルブームがあった(その証拠に13回忌終了後に裕次郎氏が休養中の回がリクエストに応じて放映された)。
再放送自体はその年の7月に控えていた裕次郎氏の13回忌行事に向けたプロモーションが目的。しかし、年明け早々からの再放送は少し気が早いようにも思えた。
再放送によって「石原ブランド」が世間で再上昇し、やがて慎太郎氏が電撃出馬。選挙本番でも石原軍団が応援、大衆人気を喚起したことも慎太郎氏圧勝の小さくない要因だったのではないか、と連載では仮説を立てたが、スケールの大きなプランニングができる小林氏なら、13回忌だけでなく、慎太郎氏を「応援」する思惑を秘め、テレ朝側に再放送の企画を持ちかけるくらいのことはやるのではないか、と私は勝手に想像を膨らませた。
もしズバリ小林氏に直撃したら、どんな反応を示しただろうか。彼のキャラクターからして、「バカ言っちゃいけないよ。考えすぎだよ」と豪快に笑い飛ばして否定する。あるいは、ニヤリとしながら「オフレコだよ」と真相を耳打ちするのだろうか……。
今となっては、想像(妄想?)の域でしかないが、否定でも肯定でも、番頭らしい風格を印象付けるような答えをしてくれたことだろう。
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小林さん、「西部警察」という作品について、取材の時、あなたが「昭和のにおいがする作品」と、おっしゃった場面が今でも脳裏に浮かびます。昭和のスーパースター、石原裕次郎をまさに実務面から支えた貴方からも、古き良き昭和の雰囲気が漂っていました。一期一会の取材でしたが、11年の記者生活で最もときめいた取材の一つでした。あの時は関係者へのお声がけを始め、快く取材にご協力くださり、そして、何よりも素晴らしい作品で楽しませていただき、ありがとうございました。今頃は天国で、裕次郎さんや三石さんと思い出話に花を咲かせているのでしょうか。安らかにお眠りください。合掌。
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民進党代表選で勝ったものの、党内に禍根を残した蓮舫氏。都知事選で見事な世論マーケティングを駆使した小池氏。「初の女性首相候補」と言われた2人の政治家のケーススタディを起点に、ネット世論がリアルの社会に与えた影響を論じ、ネット選挙とネットメディアの現場視点から、政治と世論、メディアを取り巻く現場と課題について書きおろした。アゴラで好評だった都知事選の歴史を振り返った連載の加筆、増補版も収録した。
アゴラ読者の皆さまが2016年の「政治とメディア」を振り返る参考書になれば幸いです。
2016年11月吉日 新田哲史 拝