チェッカーズはデビュー曲「ギザギザハートの子守唄」でこう歌った。
「ちっちゃな頃から悪ガキで 15で不良と呼ばれたよ」と。
私はマッチさんとKinKi Kids同様、チェッカーズが大好きな人材だ。10代、いや9歳の時にこの曲を聴いて鳥肌がたったのだが、少しツッコミを入れると15で不良と呼ばれるのは遅いのである。
そもそも不良という言葉自体が、傲慢だ。何が良で何が不良なのか。もちろん、法律や校則で規定されているものや、社会の規範というものはある。もっとも、その基準というものも揺らぐものである。非行と不良もまた違う。
私は非行には走らなかったし、自分のことを不良少年だとは思っていなかった。不良少年たちを見て、ああいうふうにならず、私は真っ当に生きようと思った。しかし、家族は私のこと不良認定していた。10代前半から大音量でロックを聴き、普段の会話はすべて暴言だらけ。弟から、私が兄でいかに大変だったか、力説されたことがある。
今も、髪を染め、肉体改造でプロレスラー並みの肉体を手に入れ、いかつい服を着ているので、カタギには見られず、飲食店に行くたびにその筋の人だと間違われる。学生からは怖がられている、らしい。不良の基準など、簡単には定義できない。
不良だからこそ見える世界だってある。不良は、世間の基準から言う不良であって、悪とは限らない。彼らがやさぐれたことにワケなんてない。いや、むしろマトモな感覚を持っているからこそ、不良になることだってあるワケだ。不良少年であったという過去は消せないかもしれないが、ずっと不良少年というワケでもない。いつまでも不良でも、少年でもいられないのだ。そういう人が活躍できる社会こそ、多様性と可能性がある社会であり、すなわち豊かな社会なのだと思う。
二度寝して2時に起きたら、リクルート時代の同期がヤフトピに載っていて驚いた。しかも、「過去の“不良”行為 市長が中高生に自慢 西宮」なるタイトルだ。あぁ、下らない。わかりやすい文脈切り取り型の批判だ。
いや、たしかに市長には清く、正しく、美しいことが求められるのだろう。しかし、過去と現在は違う。さらには、自分の人生を赤裸々に話したわけである。別に不良少年になれと言ったわけではない。不良少年であったことを隠す市長の方が問題だ。「不良行為」であって、「不良少年」だったかどうかはわからない。
むしろ、若者にとっては不良少年でも市長になれる社会の方が、希望が持てるとは思わないか。たとえ10代の頃「不良行為」をしようとも、今村岳司氏は、京大法学部に進み、会社員から市会議員に転じ、何期も議員として活躍した後、市長になった。むしろ、これは若者に可能性を伝える文脈の話だと思うのだ。
今村氏を批判している議員たちは、では、そういった消せない過去やプロフィールで人を批判し、差別・区別するのか。その方が、議員として、いや人間として問題である。むしろ反省するべきは、いや糾弾されるべきは、批判した議員の方ではないか。そんな話を聞いた若者が、必ず不良少年になるとでも言うのだろうか。子どもたちが聞きたいのは、本音であり、本当の話である。政治家の美しい言葉を若者は信用しない。
私も「どうせあいつは元リクルートだから胡散臭い」「あいつは口だけだ」と言われ続けている。どう頑張っても反論することはできない。でも、生きている。既に何者かにはなっているし、これからも何か変化・進化は起こるのだろう。
まあ、このような下らない足の引っ張られ方をされるという点で、今村市長も脇が甘い部分はあったかと思うが、とはいえ、足の引っ張り方こそ下らない。今村市長も批判している議員も、いいから政治をやってくれ。庶民が求めるのは、それだけだ。こういう下らない批判こそ、庶民をバカにした行為である。
俺も昔は悪かったんだよ。
今もな。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2016年12月14日の記事を転載させていただきました。転載を快諾いただいた常見氏に心より感謝申し上げます。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。