これは前回から二回続きで、2016年最大のヒットとなったドラマ「逃げ恥」に流れるニーチェ(というか一連の実存主義思想)についての話となっています。
つまり、「運命」をどう捉え、「本当の意味で自分らしく生きるとはどういうことか」について考えた思想・・・ということですね。
これは後半ですので、前半部分から一気読みしたいかたはコチラからどうぞ。
では以下続きです。
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一ヶ月前ぐらいに、
ニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のことを教えてくれた
という超ヘンな本を読んで凄い面白かったんですけど。
これはニーチェやサルトル、キルケゴールやハイデガーなど、「実存主義哲学」とくくられる哲学者たちが現代の京都に転生して、17歳の女子高生の主人公にそれぞれの哲学を語ってくれるというヘンな本ですが、ヘンな本だけどそれぞれの哲学をある程度概観したり思いだしたりするには充分なマトモな本でもありました。(ちなみに作者の名前をグーグル検索したらグラビア写真みたいなのが出てきて???ってなりましたが、”元アイドル”さんらしいです・・・凄い時代ですね)
私は大学時代はよくここに出てくる哲学者に勇気づけられましたし、大学時代京都で過ごしていて、まさに作中に出てくるあたりに住んでもいたので二重に楽しめました。
それぞれの哲学者は細部では違いますが、基本思想はサルトルの以下の言葉に集約されます。
実存は本質に先立つ
哲学には色んな名言ぽいものがありますが(我思う故に・・とか)、ダントツでカッコイイ言明がコレだなあ・・・と私は思っています。人生で一番影響を受けた哲学の名言かもしれない。ウィキペディアの解説とか読んでも意味はよくわかりづらいですけど、でもこのニーチェが京都にやってきて17歳の私に哲学のことを教えてくれたという本は凄くわかり易く説明してくれてたんでオススメです。
要するにジョジョの奇妙な冒険のセリフで言うと「納得は全てに優先するぜッ!」に近いものだと私は思っています。
つまり社会や親から与えられた自分への期待とか、あるべき姿とか、そういうのは「記号的なラベル」にすぎないんだ・・・てことですね。そしてその「記号的なラベル」を「本質」と呼ぶならば、そんなのとは全然関係なく完全に「先立つ」ものとして自分自身の「実存」ってのはあるんだッ!!それを生きるんだッ!ありのままでLET IT GO!!
ただ、「自分らしく」とか「ありのままで」って現代社会じゃもう挨拶みたいによく言われてるけど、そういう時に前提になってるのは「自分らしさという本質(ラベル)」に振り回されてるだけだったりすることが良くあるので現代人は注意が必要だと私は思ってます。
(「本質」って言葉が普通の用法では凄く「本質的(笑)」な響きになっちゃうから難しいけど、ここでの用法では要するに「実存とは関係ない入れ物・ラベルにすぎないもの」というふうに理解してください。知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中でもがいてたりすることってよくありますよね。僕だってそう、誰だってそうなんだ。)
この「ラベル(本質)」としての「自分らしさ」ではなく「ラベルを取った自分そのもの(実存)」としての「ありのまま」を我々は生きて行くべきなんですよね。そうしないと「自分らしさだと思っている記号」をさらにどんどん積み上げていって大伽藍を築いちゃう一方で、肝腎の「自分の実存」には一瞬たりとも向き合うことなく人生終わっちゃいますよ。
「逃げ恥」と関連してこの言葉を解説するなら、星野源さんのあの曲の歌詞にこうある通りなんですよ。
意味なんかないさ 暮らしがあるだけ
ただ腹をすかせて 君のもとに帰るんだ
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じゃあどうしたらいいのか???って考えると、私はクライアントには「無理しない」が一番大事ってよく言ってます。あと「好き嫌いで決める」ってことかな。個人クライアントも法人クライアントも全く同じことだと思っている。
これはみんなノンビリそこそこの熱量で生きなくちゃいけないっていう話じゃないんですよ。「なんか今めっちゃ頑張りたい気分!」なら頑張らない方が「無理」だし、「この作業他人にとっちゃすげー大変かもしれないけど、自分は凄いショウにあうんですよね」みたいなのならどんどんガンガンそれをやればいい。
ただ、今は「自分らしさ」を就活とかででっち上げて言明しまくらないといけない時代なので、なんかみんな「ラベル(いわゆる”本質”)」の自分らしさの大伽藍を築いてしまって、自分の「あるがままの実存」からはむしろどんどん遠くなっちゃってるところがありますよね。
で、自分の人生を考える時に、「●●業界でこういうことを成し遂げたい」とか言うのはたいてい「ラベル」の方なんですよね。そうじゃなくて「実存」の方ってどんなんかというと、
「普通はこういう作業するの嫌いな人多いだろうけど、案外俺苦じゃないんだよね。むしろなんか隅々キッチリ終わらせた時に凄い気持ち良い感じがする」
こういうの↑です。こういうのを大事にすべき。
他人と違って自分が「無理なくできる、知らんうちにずっとやってても苦じゃない」ようなものこそが「ラベルでないあるがままの実存」への大事なヒントであって、それが他人への優位性にちゃんと繋がるような選択肢を選んでいくと、本当の意味で「人生が自分のもの」になっていくんですよ。
これって、「誰をパートナーに選ぶのか」でも一緒なんですよ。よくあるラブソングの「ありがちなパターン」として、「ずっとそばにいてくれた君の魅力にやっと気づいたよ」ってのあるじゃないですか。アレですよアレ。
「ラベル」としての「自分のパートナーはこうじゃなくちゃ像」を追いかけてた時は自分の「実存」なんて一瞬たりとも向き合ったことがなかったけど、ある日本当に「このままじゃ一生独身じゃん!それは嫌だ!」ってなった時、それは「駄目駄目な妥協」のように見えるけれども、そうじゃなくて「本当の自分の実存に向き合うことを始めた日」と言えるかもしれない。
そしたら、「過剰なトキメキ志向とかでなく、一緒にいて自然だってことが、どれだけ大事なことなのか。」がわかる。一緒にいて「自然」っていうことが一番大事で、そこが外れていると、お互い必死に強がりに強がりを重ねて関係を維持し続ける必要があるので、ちょっとしたことで壊れちゃうんですよね。そしたら「積んでいくことの価値」を享受できないから、一緒にいる意味そのものがなくなってくる。
うまくいかない時、待っていてくれる人、信じてくれる人。見失っちゃいけない。
byみくりさん
結婚式で「病める時も健やかなる時も」って言いますけど、健やかなる時だけ良い関係なら誰とだって結べますよね。逆境でも一緒にいた友達が本当の友達だとわかった・・・とかもよく言われますけど。
人生の中にそういう関係が「ある」人は、本当の意味での「リスク」を取って生きることができる。そういう関係が「ない」人は、人生の長い期間四六時中「ちゃんとオーケーな範囲内」から決してはみ出さないことが第一義になってしまって、「あれもやってない、これもやってない、ああ取り残されてしまう!」という不安に押しつぶされながら生きていくことになる。
さっきも言ったけど、これは経営コンサルティングのクライアントでも同じ感じなんですよ。個人の場合と全く同じ。まあ、私は経営者がちゃんと権限持ってる会社しか取引しないからでもあるけど。
私の本読んだだけで、別に募集もしてないのに依頼してくるような経営者は優秀だから(笑)、このギョーカイならこういうことはキチッとやらなくちゃね・・・ということをちゃんと勉強してちゃんと優位性を確保するようなことは当然できちゃう人たちなんですよね。さらにプラスして、何らかの”スキル”的なことでまとまった習得が必要な時にはソレ用の専門家をパッと買ってしまえばいいという「自他の得意分野の切り分け感覚」も明確にある。
でも、さっき個人の話で、
単純化して言えば、安定した職業につく必要があるなら就職すればいいし、それに必要なスキルがあるなら習得すればいいし、自分と一緒になるべきパートナーが必要なら出逢えばいいだけの話だと言える。(中略)
でも「それを自分が獲得するべき理由」だけは自分で真剣に編み出していかないと誰かからポイっと与えられたり「こうすれば本当の自分さんに出会えますよ!」というような方程式を教えてもらえたりすることは決して無いということですね。
て書きましたけど、これが「法人」の場合でも物凄い重要なんですよ。他人ではなく自分たちこそが「それをやる優位性を築ける理由がある」ってことをいかに選べるかが、経済活動では一番大事なことですからね。
でこの「理由」ってね、構造的客観的に説明できるものだけじゃないし、むしろ「好き嫌い」とか「ショウにあう・あわない」が凄い大事なんですよ。(むしろ、インターネットや金融技術の発展やその他色々な社会的文脈の変化で前者のインパクトがどんどん減っていくので、これからは後者こそが一番大事というぐらいだったりする)
そういう感覚はどんどん摩耗していくんですよね現代に生きていると。特に日本人は真面目なので、「かくあるべき像」が社会に共有されてると必死にそれに追い回されるだけで終わってしまいがちで。
そこで「本質というラベルを剥がしてありのままの実存の感覚をフレッシュに保つ」ことが、私がコンサルティングでやってること・・・と言っていい。
日本企業はとにかく中小も世界的大企業も現場は強いが「経営力」が駄目駄目で、戦略的価値がないところにバンザイ突撃を続けてどんどん没落してってる・・・ってよく言われる惨状ですけど、私の考えではそれは「戦略を考えて採択し実行するスキル」の問題ではなくて、「戦略を選び取る本能的センス」にフタがされてしまっていることが原因だと思っています。
それはある意味「無理しない」で「本質でなく実存」を優先する姿勢からしか見えてこない。
要するに「なんかこれやらんといかんのはわかるんやけど、言うたら悪いけど嫌やねん!」ていう時に「嫌」って言える人じゃないと「実存へのセンス」はオモテに出てこないんですよ。でも日本人は(特に今の日本人は)その「本質でない実存のセンス」からは必死に逃げてるようなところがあるから、そりゃうまくいかないよねって話になる。
だから日本社会が本当の「戦略的経営センス」を取り戻すためにも、我々は合言葉のように
実存は本質に先立つ
って言葉を大事に生きていきたいですね!
そしてそれは、単純に言えば、「嫌なことは嫌」と言える訓練から始まるわけですね(笑)頑張りましょう。
目の前の会社の上司に言えたり、周りを巻き込んで環境を自分で変えていければ理想ですが、それが無理でも、たとえネットで「日本死ね」って言うんだとしても(もっと良い相互コミュニケーションができれば理想ですけど)、そこから「交渉」に入って「お互いの事情」を突きつけあって変わっていけるようにしたいものです。
「逃げ恥」の中では、「搾取です!」とキレるシーンが沢山あったけど、その後「言いっぱなし」にならずに、「相手側の事情も全部テーブルに上げて、一個ずつ自分たちなりに解決する」って流れになってたじゃないですか。そこがいいんですよね。
●ステップ1
「嫌なら嫌という。搾取です!!と言う」
●ステップ2
「それでも一緒にやっていきたいから、嫌だと言いっ放しにするんじゃなく相手の事情も自分の事情も時間をかけてしっかり理解する」
●ステップ3
「お互いにとって良い形になるよう交渉する」
今はステップ1だけが暴発してるけど、全然2や3に入っていかないで全部自分たちの「敵」に押し付けて内輪で騒いでるだけっていう状態に社会のあちこちがなっていて、そんなことやってても何も改善していかないので、そりゃ閉塞感も感じるよねという世界です。
嫌なことは嫌だと言い、しかし「それでも一緒に暮らしていく現実がある」というところから逃げずにいるなら、我々のその袋小路から、自分だけの人生を自分で勝ち取っていく「実存」への道が開かれるのです。
そうですね、交渉は大事です!! by津崎平匡
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最後に、弟の結婚式の写真をもう一個(笑)いやほんと幸せ感ある式だったんですよ・・・
ちょっと最後の数段落真面目なこと言いますけど。
結婚という「形式にすぎないもの」をディスればディスるほど知的でポリティカリーコレクトっぽいみたいな時代が長く続いてますけど、そりゃ嫌な人に無理強いするのは良くないが、「単なる普通の人」同士を、「時間をかけて積んでいけるだけの特別性をお互いに演出しあった二人」に変えるには、多少大時代的な演出だってあった方がよくて、そういうのの価値をちゃんと理解して取り込むことが「ポリティカリー・コレクトネス」がトランプ現象やイスラム過激主義に反撃されずに「必要なあらゆる人に届く」ようにしていくために大事なセンスだと私は思います。
「古い男性社会による女性への抑圧を解放していくプロセス」が人間社会で進行中なのを別に邪魔するつもりはないんですが、そのプロセスが「普通に生きている男女」から「自分たちの自然的な生の満足」をひっぺがして、一部の「人生のあらゆることが政治権力闘争」みたいな人の個人的なエゴの充足に回されてしまうような流れはちょっとサステナブルじゃないです。
ある男女(男女じゃなくてもいいんですがとりあえず)がいて、その男女が「お互いのことだけ」をちゃんと見れればいいけど、でもその「あるがままの実存」を、「対男に対する闘争における女代表」「対女に対する闘争における男代表」的な非常に人工的な文脈に回収してやろうとする欲望はこの社会にうなるほどうごめいてるわけですけどね。でもそんなのに付き合っても、自分の人生が他人に占領されちゃうだけですよね。
他の色んな人と変わらない赤の他人だった人を、「人生を一緒に歩む特別な誰か」に変えていくプロセスも、「夫婦」や「カップル」といった問題に対する社会的に難しい文脈から離れたところで、「リアルな自分たちにとって一番良いのは何か」を二人で考えていくことから見出されていくんですよね。それが「夫婦を超えてゆけ」っていう歌詞の意味だと私は思っています。
夫婦を超えていけ!!二人を超えて行け!!一人を超えて行け!!
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それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。
今回から、「ブログに書ききれなかった話」をさらに別記事にしていくことにしました。既に普通のブログとしちゃ結構長いですが、まだ読めるぞ!という方は上記リンク先へどうぞ。
倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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