西洋の記念日を排斥する中国ネットの“愛国”

私が受け持つ大学のクラスで、「身近なニュースから社会を論じる」との期末課題を出したところ、ある女子学生が「クリスマスをボイコットする現象の考察」と題する作品を提出した。中国では経済成長によって欧米文化がみるみる流入し、都市部ではクリスマスソングが流れ、きらびやかなツリーが登場する。海に面したここ広東省汕頭は、対外交流の歴史的背景からキリスト教の教会が多く、イブにはあちこちで讃美歌がこだました。

だがひとたびネットをのぞけば、全く異なる「抵制聖誕節(クリスマスボイコット)」の掛け声が幅を利かせる。

「中国人は列強から侵略を受けた屈辱を乗り越え、西洋崇拝から抜け出さなくてはならない」
「グローバル時代の文化侵略から、中華の伝統文化を守らなくてはならない」
「社会主義国として、資本主義のこれ以上の浸透を防がなくてはならない」

だいたいの主張はこうした内容だ。女子学生は「中国はいつの間に清朝時代の閉鎖社会に戻ってしまったのか」との驚きから、考察を始める。憲法では宗教の自由が保障され、キリスト教徒が少なからず存在し、年間1億人以上の中国人が海外に出かける時代だ。彼女は触れていないが、中国は1960年代から70年代にかけての文化革命期、やはり国を閉ざして階級闘争に明け暮れ、海外と関係のある者をつるし上げた時代がある。だが現在の西洋文化排斥は、開かれたゆえに起きている点で、過去に例を見ない現象だ。

クリスマスに限らず、ニューイヤーやバレンタインのイベントも、新鮮さを求める若者たちが主役で、ちゃっかりそれに便乗する商法があるに過ぎない。日本と同様、一大消費イベントと化しているのだ。祝日の背景にどんな文化的背景があるかなど、だれもお構いなしである。彼女の驚きはもっともだ。私の周囲にいるほとんどの中国人も同様だろう。「クリスマスボイコット」を叫べば、たちまち「視野が狭い」と総攻撃を受けるに違いない。

ではなぜネットでこうした声がはびこるのか--ー。社会不満が招く排外感情であれば、米大統領選でのトランプ現象と同じロジックだが、実態はそう簡単でない。

習近平政権が強力に推し進めるイデオロギー統制が大きな背景にある。習近平氏は、党内の腐敗を最大の危機ととらえ、高位高官に対し容赦のない反腐敗キャンペーンを行っている。規律強化の柱として、社会主義の優位性、自信を過度に強調する一方、国民をまとめる中核として、儒教や道教など伝統文化の復興を訴えている。

本当に自信があれば、自信をことさら強調する必要はない。伝統文化に価値があれば、政治指導者のスローガンにかかわりなく継承される。実際、政治の中心から隔たった広東では、古代言語の名残をとどめる方言の広東語や潮汕語が根強く残り、伝統的な宗族文化を色濃くとどめている。自信がなく、危機感があるからこそ、敵愾心をあおる必要が出ててくる。西側の民主主義、自由主義イデオロギーを守る言論に対し、メディアがしばしば「敵対勢力」のレッテルを張るのはその表れだ。

ネットの西洋化批判は、こうした政治の追い風を受け、狭隘な民族主義、教条的な社会主義が頭を跨げている現象にほかならない。反植民地の屈辱的な歴史を土台とした愛国主義のレッテルを人質に取っているだけに始末が悪い。だが女子学生の文章ははっきり真相を見抜いている。

「国を閉じて井の中の蛙になり、世界の流れから外れれば、落伍するしかない。グローバル時代にあって、あらゆる国家はその枠外に身を置くことはできない」

シルクロードは唐代の包容力ある文化が人とモノの往来を生んだ結果である。習近平氏が唱える陸と海のシルクロード構想「一帯一路」も、大国の包容力を持てるかどうかにかかっている。クリスマスのボイコットがはびこる社会に、真のソフトパワーは育たないことは、だれの目にも明らかである。

クリスマスイブは中国語で、「平安夜」と訳される。「平安」は文字通り、平和で、安らかなさまだ。その「平(ping)」と同じ発音から、中国ではイブに「苹果(りんご)」を贈る独自の習慣が生まれている。これこそ多様な文化が持つ吸収力、包容力なのではないか。ソフトパワーは民間の多様な価値観があってこそ育つ。クリスマスをボイコットするのではなく、新たなクリスマス文化の創作を誇るぐらいのゆとりがないと、大国の度量とは言えない。


編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年1月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。