貧乏の良いところ?

作家・幸田露伴(1867年-1947年)は「貧窮の4つのよいところ」として、①貧乏は人を鍛える、②貧乏であると本当の友達とそうでない者とがわかる、③貧乏は本当のことを悟らせる、④貧乏は人を養う、を挙げているようです。本ブログでは以下これらにつき、私が思うところを簡潔に申し上げたいと思います。

先ず①④に関して述べますと、確かに貧乏は人を「鍛える」ことも「養う」こともあるかもしれません。「艱難汝を玉にす」と己に言い聞かせ、中国清代末期に太平天国の乱を平定した曾国藩が言う「四耐四不(したいしふ)」を実践して行くのです。「冷に耐え、苦に耐え、煩に耐え、閑に耐え」るという四耐、及び「激せず、躁(さわ)がず、競わず、随(したが)わず」という四不が、人物を育てる上で非常に大事であるに違いありません。

但し、私は貧だから人は鍛えられるとか養われるとかいったことにはクエッションマークです。貧乏になるが故、吝嗇(りんしょく)なる人もいるでしょうし、悪事を働く人もいるでしょう。生活が苦しくなればなる程に、世を恨み、人を恨み、天を恨み、性格が捻じ曲がって行くような人もいるわけで、逆に貧が人を悪くするという側面もあるでしょう。従って①④につき、貧乏か否かの類は本質ではないと私は思います。

次に②③に関して言うと、これまた「本当のこと」や「本当の友達」は必ずしも貧であったらというものではないでしょう。例えば『史記』に、「一貴一賎(いっきいっせん)、交情乃(すなわ)ち見(あらわ)る」という名文句があります。之は前漢王朝の時代の翟公(てきこう:前二世紀頃)という人が、自分の地位が上がったり下がったりすると、皆さんの御付き合いの心が良く分かるものだ、と屋敷の門に書き付けた言葉です。

あるいは梁の劉孝標が書した『広絶交論』にある「五交(ごこう)」の内、「勢交…せいこう:勢力者に交を求める」や「賄交…わいこう:財力有るものに交を求める」という交わりの仕方があります。一方では『荘子』にまた、「君子の交わりは淡きこと水の如し」とありますが、決してべったり近付いてくるわけでもないけれども、折に触れ心温まるような言葉を聞かせてくれたりする人もいるでしょう。このように貧乏か否かに拘らず、世に多種多様な交際の求め方をする人は多く、私は②③もそういうものではないと思っています。

故小泉信三博士に「100年に1度の頭脳」とも言われた幸田露伴ですが、私自身嘗て彼の作品を色々読んでみて実は余りピンとこなかったのも事実です。上記「貧窮の4つのよいところ」のように一面何となく分かったよう感じられるものの、よくよく考えると「そうかなぁ?」と的外れに思われるといった具合です。

人間の徳性というのは、その人の貧富の状況で左右される類ではありません。『論語』に出てくる孔子の一番弟子である顔回の生き様の如きを見るとそれが良く解ります。無欲で己を磨くことだけに人生を費やし短命で死した彼は、「路地裏に住み、食事も一椀の飯に一杯の水といった簡素なもの」(雍也第六の十一)でありながら、それを自ら楽しんでいたと言うのです。

貧極まる生活の中で顔回は31歳と若くしてその生を終えたわけですが、徳を好み徳を磨く努力をし続けた彼にとっては、仁者としての生き方に幸福を得ていたのかもしれません。そして彼は常に「利を見ては義を思い」(憲問第十四の十三)、利に飛びつかず必ず義に適っているかどうかと自問自答していたのです。

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