今週のブログマガジンにも書いたように、最近の進化心理学の研究では人間と類人猿の差は不連続なものとはみられないが、理性と感情のバランスは大きく違う。たとえば今すぐもらえる2個の餌を我慢すると、あとから6個の餌をもらえる実験をすると、猿は何度やっても8秒と待てない。目の前に餌があると、理性で欲望をコントロールできないのだ。
豊洲より築地のほうが危険で不潔であることは明らかなのに、そういう合理的な判断ができず、いつまでも無関係な石原知事の「責任」やら「都政のドン」の疑惑ばかり論じているワイドショーは猿みたいなものだが、理性が進化において有利だったかどうかは不明だ。
本書の紹介する実験でも、論理的な推論が進化で有利になる根拠は見出せない。それは科学技術や事務作業には役に立つが、遺伝的な能力ではないので学校で訓練する。東大に受かる学生はそういう特殊な推論能力をたまたま備えた人で、人格とは無関係だ。世の中に人格的にいい人は多いが、科学技術の役には立たない。
進化で有利になるのは、他人と同調する能力である。人類は集団でないと生存できないので顔や名前を覚えて仲間を同定する能力が重要だが、仲間が100人を超えると名前を覚えることが困難になるので、敵と味方を識別する合言葉が必要になる。
その合言葉が言語や宗教だが、言語は本来の機能よりはるかに複雑に発達し、数学的な推論を科学的に検証するようになった。本書ではこの科学的推論を遺伝的に説明しようとしているが、「限界がある」と認めている。あなたの脳は遺伝的には1万年前の狩猟民族と同じなので、そのころ微分方程式を解く能力が生存に有利だったとは考えられない。
科学的な推論は、宇宙ではすべての物体に同じ法則が当てはまるという信仰で、330年前にニュートンが「数学的原理」として提示した仮説だ。地球と同じ万有引力の法則が宇宙の果てのブラックホールにも当てはまる論理的な根拠はなく、その証拠も見つかっていない。
近代の科学が成功したのはニュートンの理神論が(今のところ)証明されたからだが、それはヒュームが指摘したように同時代には自明ではなかった。われわれが物理法則を必然だと思っているのは、学校で教え込まれた習慣にすぎないのだ。