音楽の都ウィーンは精神分析学の創設者ジークムンド・フロイト(1856~1939年)、「個人心理学」のアルフレッド・アドラー(1870~1937年)、そしてロゴ療法を提案したヴィクトール・フランクル(1905~1997年)など多数の著名な精神分析学者を生み出した都市だ。……というわけではないが、知人の外交官は「きみ、北朝鮮の金正恩氏はパラノイア(Paranoia)だね」と、北の独裁者の精神状況に対して診断を下したのだ。
ウィーンではなく、平壌でこのよう診断を下したならば、知人は政治収容所に即連行されるか、その場で処刑されるだろう、という思いを感じながら、当方は知人外交官の診断に苦笑した。
知人外交官とは日本レストランで会った。彼は当方から北の最新情報を知りたがっていた。そこでマレーシアのクアラルンプール国際空港で起きた「金正男暗殺事件」(2月13日)の経緯とその背景について説明した。その中で「金正恩氏のパラノイア説」が飛び出してきたわけだ。
国連安全保障理事会は8日、緊急会合を開き、北朝鮮のミサイル発射を受けた対応策を協議したが、その後の記者会見でヘイリー米国連大使は金正恩氏について「理性のある人物ではない。驚くほど無責任で傲慢だ」と批判したという。
金正恩氏が無責任である点は議論の余地はないし、常識から判断すれば、「理性がない人間」と評価されたとしても致し方がないだろう。大多数の国民が飢え苦しんでいる中、巨額の資金を核兵器、ミサイル開発に投資する独裁者は、どう見ても理性的とはいえないからだ。
ただし、知人外交官が診断した「パラノイア」は、内因性の精神病で、特徴は妄想が伴うが、その思考論理は一貫しており、行動や思考の乱れはあまりないのだ。だから、外観からでは普通の人間と余り変わらないが、その言動を慎重にフォローしていくと、妄想など偏執病の症状が見られる。
当方は「金正恩氏は頭は悪くない」と見ている。突発的で、暴力的言動が見られるが、基本的にはその言動に一貫性があるからだ。もちろん、外部からみれば、彼は独裁者以外の何者でもないし、その言動には狂暴性が見立つ。しかし、少なくとも馬鹿ではないのだ。
核兵器開発に執着し、その放棄は考えていない。核兵器保有こそ、金政権の生存を保証する唯一の選択であることを知っているからだ。大陸間弾道ミサイルの開発も同じ思考の延長線だ。正恩氏の軍事的思考には揺れが見られない。
ところで、金正恩氏の実母が在日出身の高英姫夫人だったという事実が異母兄、金正男氏への負い目となり、強いライバル意識があったという解釈がある。叔父の張成沢氏が金正男氏を支持し、正恩氏を政権から追放するのではないか、という妄想を払拭できずに苦しんできた。金正恩氏には“出自”への負い目が予想以上に強いというのだ。
パラノイア気質が強い人間は、負い目を甘受せず、その是正に乗り出そうとする。金正恩氏は負い目を感じてきた正男氏を暗殺し、それに先立ち、正男氏を支援してきた叔父を処刑した。正恩氏の言動にはある意味で一貫性がある。ミサイルを発射する一方、その数日後、マレーシアで金正男氏暗殺を指令しているのだ。
上述した外交官は、「独裁者はパラノイアが多い。その意味で金正恩氏も例外ではない。自身の権力を失うのではないかと恐れている。そして誰かが自分を裏切らないかと常に懐疑心に憑りつかれている。だから、側近を処刑する。パラノイアは独裁者の職業病だ。パラノイアではない独裁者を見つけるのは難しい」と指摘した。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年3月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。