反腐敗キャンペーンを題材にした『人民の名義』は、単純な勧善懲悪ばかりでなく、現実に即した血なまぐさい権力闘争のストーリーで庶民の広い人気を得ている。舞台となっている漢東省は架空の名称だが、撮影場所は南京だ。
ドラマでは、漢東省の京州市副市長に対する腐敗捜査(本人は米国に逃亡)から、芋づる式に癒着の構図が暴かれていく。主人公は、最高人民検察院から同省反腐敗局長に就任した侯亮平だ。正義感が強く、度胸もある。彼が、同市トップの李達康同市共産党委員会書記の公用車を停車させ、同乗している同書記の前妻で銀行幹部の欧陽青を連行するシーンはハイライトの一つだ。前妻とはいえ、通常の検察官であればとうていできない離れ業である。
興味深いのは、捜査に口を挟まず、前妻が連行されるのを黙って見届ける李書記に人気が集まっていることだ。彼は無趣味で、仕事しか興味のないつまらない男だ。帰宅はいつも深夜で、欧陽との関係は冷え切っていた。欧陽は夫に隠れ、夫の権威を利用して私腹を肥やし、いずれ司直の手が伸びてくる。連行される直前、二人は離婚協議書にサインし、欧陽は娘のいる米国に逃げようと空港に向かう途中だった。空港まで送り届けるのが、李書記が夫として最後にみせた人情だ。
李書記は前妻を見捨て、切り捨てた冷酷な男だ。親類や友人から人事やビジネスの頼まれごとをしても、「そういう話は書記の前でしないでほしい」ときっぱりはねつける。仕事の話になると夢中に語り、人の話にも耳を貸さない。直情型のタイプだ。出来の悪い部下は容赦なく怒鳴り散らす。仕事を怠けている幹部たちを集めて反省会を開き、「やる気のない奴は辞表を書け」とまで言い放つ。
出世欲は人一倍強いが、私的な人脈に頼ったり、金品で地位を買収したりするようなことはしない。あくまで都市開発や民生向上の事業で実績を上げようと努める。だから、「原則を守る」との評価を得ている。毀誉褒貶が多いが、省トップの沙瑞金同省委書記からは重用される。率直で、正直、ときには滑稽に思える感情表現は、舞台で場数を踏んだ俳優、呉剛の名演によるところが大きい。チャットには李書記の顔文字が多数広まり、人気のほどを物語る。
メディア論の授業で、学生がこのドラマの人気と社会背景について発表した。それによると、李達康書記は、「しっかり仕事ができ、責任を負い、清廉であるという、官僚の理想像を体現している」ことで、好感されているという。確かに、コネや人情、メンツによる人間関係でがんじがらめになっている社会の中で、自分の信念を貫き、公私を峻別し、公正な行政を行うことは容易でない。不可能といってもよい。だから李書記に人間として多少のデコボコがあっても、むしろそれは人間味として受け取られる。
私は、別の視点を語った。中国の庶民は、突破力を持った強い指導者を好む。法律による正義よりも、権力による公正の実現を重んじる。手続きよりも実体、形式よりも中身が大事だと考える。社会があまりにも複雑で、細かいことにこだわっている余裕がない。だからこそ李書記のような、確固たる信念を持ち、そのためには独断専行とも思える強引さで突き進む人物を待望し、崇拝する。特に庶民が最も忌み嫌う腐敗への態度が重要だ。習近平総書記が、今まで手の付けられなかった党や軍の大物を次々になぎ倒し、幅広い人気を得ているのも同じことだ。
一方で、強権政治は、民主派から批判の目にされる。私のもとに届いた典型的なコメントは、「権力を人民の手に渡してこそ民主主義が実現される。強い指導者に頼っていては、いつまでも施しを受ける臣民でしかない」というものだ。確かにこの視点は見過ごすことができない。中国の憲法は、「中華人民共和国の一切の権利は人民に属し、人民が国家権力を行使する機関は全国人民代表大会と各クラスの人民代表大会である」とし、政府ばかりでなく司法機関への監督機能も定めている。
だがドラマではこれまで、人民代表大会の存在がまったく無視されている。個別案件に対する介入はできないが、人材の登用や腐敗官僚に対する日常的な監督において、人民代表大会はしかるべき機能を果たさなくてはならない。党がすべてを決めているのが現実だとしても、官製ドラマである以上、視聴者に正しい認識を普及する責任がある。
最新の回では、トップの沙瑞金省党委書記が、李書記の独断的やり方に危惧し、いかに監督すべきかということに言及がある。どうなるか、さらなる展開をみないとわからない。いずれにしても、李書記が目の離せないキーパーソンであることは間違いない。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年4月25日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。