手当というものがある。あるいは、あったと過去形にすべきかもしれない。企業人事の現在の潮流では、諸手当は整理される方向にあるからである。消え去った諸手当のなかに、家族手当というものもあった。例えば、子供一人につき月額いくら、というような手当の支給である。
この家族手当を評して、ある著名な人事コンサルタントは、「なぜ企業が社員の生殖能力に対して報酬を支払わなければならないのか」、という名言をはいたものである。心もち品性を損なう感もあるが、家族手当の不合理性を鋭くかつ極めてわかりやすく指摘したものとして、歴史的名言だと思われる。歴史的というのは、歴史に残るということではなく、20年以上も昔の発言だという意味だが。
家族手当は、成果への対価でも、仕事への対価でもない。それは、何の対価でもあり得ない。ところが、企業統治の論理からいえば、何の対価でもない金銭の支出はできないはずである。では、なぜ、昭和の時代まで、企業の人事制度として、家族手当は存続し得たのか。
実は、金銭の支出が常に何かの具体的な効用に対する対価でなければならないと考えることは、一つの偏狭な発想である。人は、お祝い、お礼など、様々な社交的機会において、金銭の授受を行っている。そのような金銭の支払いは、何らかの気持ちを伝えるのが目的である。ならば、企業においても、気持ちを伝えるための金銭の支給があってもいいのである。
では、家族手当の支給を通じて、どのような気持ちを伝えようとしたのか。一つの企業に属する人は一つの価値なり歴史なり文化なりを共有するということ、一つの共同体的なものの構成要素であること、何か、そのような思想を背景としない限り、企業に関係のない家族構成についてまで、手当を支給することはできないはずである。要は、企業の中の人は企業の外の人とは異なる特別なものであるとする意識があったということであろう。
現在では、正規雇用だろうが非正規雇用だろうが、同一の仕事に対しては、原理的に、同一の報酬が提供されなければならないわけだが、以前には、社内の正社員のほうが有利な報酬を受けるのが普通であった。この報酬格差は、企業内の人の自然な特権としてしか正当化され得ない。自然なという意味は、論理を超えた感性、あるいは心性の次元で、ということである。
要は、家族手当の支給を通じて、一体感、あるいは帰属意識、何か、そのようなものの醸成が意図されていたのであろう。その限りで、確かに伝えたいものはあったのである。カネはモノをいうのだ。
森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
HC公式ウェブサイト:fromHC
twitter:nmorimoto_HC
facebook:森本紀行