天守のあるお城はすばらしい。たとえば姫路城。
JRまたは山陽電鉄の姫路駅の駅舎を外に出ると、大手筋の真正面に天守が聳えているのがただちに見える。駅と天守は約1kmの距離があるけれども、天守と町とが一体であることはすぐに判る。
しかし、もしこの天守がなかったとしたらどうであろうか。遠くからはお城の存在はほとんど認識できず、徒歩で15分ほど、城郭に近付いてみて、はじめてその石垣の様子がわかる。お城というものに、天守がある場合とない場合の落差は、激しいものがある。
このことはJRと近江鉄道の彦根駅と彦根城との関係でも、ほとんど同じであろう。姫路と彦根、どちらの天守も国宝である。
では石垣だけの古城郭には意味がないのだろうか。それはまったく間違っている。2022年の木造天守復元竣工が計画されている名古屋城でも、石垣の価値をどう理解するかで、どうもこじれが出ているようだ。
この名古屋城の木造天守復元に関し、専門委員として加わっている千田嘉博氏はこう述べる。
木造復元ありきでなくて、まずは国の特別史跡として最も守らなければいけない石垣をしっかり調べて、次の世代に残せるように保全措置をとって、その先にどう活用するかという議論があるべき。(今の計画は)国の特別史跡の活用計画として、非常にまずいのではないか。
「名古屋城天守閣木造復元に厳しい意見続出」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170623-00003182-cbcv-soci
(CBCテレビ 2017年6月23日配信)
また同じく宮武正登氏は、
石垣を保護する観点が欠けている木造復元計画はいずれ行き詰まる。
「名古屋城 石垣移動計画を再考へ 文化庁、保全が前提」
https://mainichi.jp/articles/20170513/k00/00m/040/099000c
(毎日新聞 2017年5月12日配信)
とも。市長をはじめ、木造天守復元に、期限を切った上で前のめりである名古屋市の幹部連と、石垣の価値を充分承知している専門委員との溝は、小さいものではないようだ。
ではなぜ石垣が重要なのか。
考えてみてほしい。現在の名古屋城の天守は、1945年のアメリカ軍の空襲で焼け落ちた天守を、戦後になって鉄筋コンクリートで外装復元したものである。今回の計画ではそれを取り壊し、石垣の調査と保全と修復は後回しに(省略)して、また場合によっては石の一部を、工事の都合に合わせて移動させた上で、木造で天守復元しようとしているわけだ。それは鉄筋コンクリートよりも精緻なレプリカであることはたしかだ。家康の時代に建造された天守の構造は、空襲以前に詳細な測量もなされていたから、それに沿って木造で建造をすること自体に、おおきな障碍は予想されていない。しかし同様のことが石垣でできるであろうか。石垣は木造のように、あらたな材料に置き換えて復元ができるものであろうか。
これは出来ない相談なのだ。まず当時と同じ系統の石が集められるかどうか。そして当時の積み方の通りの積みで積めるものかどうか。そしてもし当時の積み方ができたとしても、その積み方も、個所によってまったく一様ではないのだから。
なにより懸念されるのは、一旦天守が乗ってしまうと、土台である石垣は、調査も修理も、極めて困難になってしまうことであろう。
名古屋城はホームページが充実していて、どのようにその石垣が作られたのか、実に詳しい。たとえば『名古屋城公式ウェブサイト』の中には
『名古屋城の歴史』 複雑な丁場割
http://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/07_rekishi/07_01_jidai/07_01_06_tyoubawari/index.html
といった項目がある。
じつはこのWEBの中にある図面、その元となった古図(のレプリカ)が、つい先日の6月10日に放送があった
『ブラタモリ』 尾張名古屋は家康で持つ?
でチラリと出ていたくらいなのだが、この工事は全国の大名が結集した(結集させられた)天下普請で、いってみれば上下関係、またお隣同士との関係も複雑極まりないJVであったわけで、制約の下、それぞれが工夫し、相互に影響し合う。そういった経験を重ねてゆく内に、石垣の積み方にも変化があらわれ、5年も時間が経過すれば、様式が更新されてしまう。この経過を示す証拠は、あたかも指紋のように石垣の表面からも読み取れることがあるし、石垣の内側にもまた確実に存在しているものなのである。
城の歴史は、天守よりもむしろ、石垣、堀、縄張りにこそ宿る。
現に2016年の地震で傷ついた熊本城では、修復のための事前の調査によって、あらたな発見が続いているのが今なのだ。
(参考記事)
熊本城小天守北側に埋没石垣 復旧工事の調査で確認
http://kumanichi.com/news/local/main/20170613003.xhtml
(熊本日日新聞 2017年06月13日配信)
主として研究者である専門委員が、謂わばレプリカに過ぎない天守の木造復元よりも、(それが地味にしか見えないものであっても)石垣の史的価値を高く見積る理由は以上の通り。おそらく名古屋城の学芸員の多くも、そのあたりのことはとっくに承知しているはずであろう。
さて、このあたりではなしは名古屋を離れる。わたしも城郭については関心があって、それなりに研究してきたし、機会をつくっては方々の城を訪れてきた。とはいえ、実は名古屋城については、ほとんど実地の見聞がない。そこで京都二条城を例に、石垣がどれだけのことを物語るのか、ちょっとだけ例を示してみたい。
現在の二条城の主な築城期間は、おおむね1601年から1626年にかかる。熊本城や江戸城がそうであるように築城途中に時間的経過がかなりあって、石垣についても様式の変遷がみられる。
以下、わたしも参画して作成した、上京の石たち編『二条城 石垣ものがたり』(2015)の画像を数枚引用して示す。
この築城の間、将軍は家康、秀忠、家光、と三代の移りかわりがあるのだが、この石垣も同時に変化を遂げている、この変遷を読み解くと、徳川将軍家と朝廷との駆け引きさえ、ほの見えてくるといったものだ。
ところでこの二条城の石垣に関しては、一昨年の2015年の夏より、同志とともに、その所有者である京都市に対して、繰り返し環境保全や史的研究や耐震性の調査を訴えてきたところだ。それが将来にわたって二条城の価値を高めるからである。だがここ京都でも他聞にもれず昨年、二条城本丸天守復元の献策が、さるところから出たばかり。この状況は、現在の名古屋と似ていなくもない。
2017/06/24 若井 朝彦
名古屋城は天守それとも石垣