江戸時代には皇子などを有力公家の養子にするということが行われていた。つまり後陽成天皇のふたりの皇子を摂関家に養子として出し、それぞれ近衛信尋、一条昭良となった。母親は、秀吉を猶子(準養子)にして関白への道を開いた近衛前久の娘。ただし、入内したのは、豊臣秀吉の猶子としてだった。
そして、閑院宮家の創始者は、東山天皇の直仁親王だが、その子が鷹司家をついで鷹司輔平となり、今上陛下とはサリカ法典式の数え方だと伏見宮系よりはるかに近く、しかも、男系子孫がかなり分厚くいる。
この人たちの男子男系子孫だが、残念ながら、近衛・一条・鷹司各家は途中で養子を迎えたので男系男子で連続していない。しかし、あちこちに養子に行ったのをたどると、華園、梶野、徳大寺、中院、住友、室町、山本、東儀、北河原、千秋、常磐井、近衛、水谷川、醍醐、佐野、南部の各家に天皇家男子男系の人たちがいる。もちろん、これらの姓の人すべてではない。
近衛の場合だと、御当主は母が近衛家出身である細川護煕の弟だが、指揮者の近衛秀麿の系統は男子男系だ。意外なところでは、住友家がそうなのだ。西園寺公望の弟が養子で入ったからだ。
そのあたりの細かい系図を「男系女系から見た皇位継承秘史」(歴史新書)では紹介している。
八幡 和郎
洋泉社
2017-07-04