高松宮という名は香川県の高松とは関係ない。有栖川宮の屋敷があった、高松殿(姉屋小路通新町西入る)に由来し、もとをたどると、源左大臣高明(醍醐天皇皇子)の屋敷だった。
1913年に有栖川宮威仁親王が子の栽仁王に先立たれたまま亡くなられ、有栖川宮は断絶した。親王を兄のように慕っておられた大正天皇は、第三皇子の宣仁親王に高松宮の号を与え、有栖川宮の祭祀を受け継がせられた。また、財産も受け継がれたので、たいへん裕福な宮様だった。
有栖川宮威仁親王の娘の子で、かつ、有栖川家出身の母を持つ徳川慶喜の孫である徳川喜久子と結婚した。また、徳川慶喜の母は有栖川宮家の出身だから、二重の縁で有栖川家につながる。「公武合体」などといわれたが、有栖川家の血が重視されただけだ。
そういうわけで、ほかの妃殿下に比べて気位は高く臆することなく自己主張された。宮様の死後に蔵から戦争中につけられた日記が発見されたときは、宮内庁の反対を押しのけて阿川弘之氏らの尽力もあって出版された。母を癌でなくされたこともあり癌撲滅に熱心だった。
また、宮家の財産は妃殿下の姉妹などに相続されたようだ。皇室の財産が血統を受け継がない民間人に引き継がれることもあるという珍しい例だ。
戦後、昭和天皇と戦争についての認識の違いが明らかになり、いまでも決着していない。1975年に殿下が雑誌『文藝春秋』の対談で、開戦時に長兄・昭和天皇に戦争反対を進言したことを述べたところ、昭和天皇は怒り、「周囲の同年配の者や、出入りの者の意見に左右され、日独同盟以来、戦争を謳歌し」と仰った。
高松宮が近衛文麿らを中心とした終戦工作にかかわったことは事実だし、もともと、高松宮がタカ派的な色彩が強かったのも事実だが、開戦前後の昭和天皇をめぐる動きについては、両方の見方が可能かと思う。戦後は講和後の昭和天皇退位の可能性について語られたこともある。
高松宮は若い皇族にたいへん大きな共感をもたれたといいます。高松宮は、土塀だけの京都御所での民とのふれあいが理想と仰い、京都ではある旅館にお泊まりされていましたが、それを秋篠宮も引き継がれておられました。
私は皇族のなかに、高松宮殿下のような陛下と違う意見や感覚を持った人がいて刺激を与えることはいいことだと思う。その点、いまの皇室にそういう人がいないのは残念だ。
ただし、昭和天皇は秩父宮が死んだときは見舞いに行けなかったことを悔やみ、高松宮の見舞いにはたびたび訪れ、最期も看取っている。
私の新著である『男系女系から見た皇位継承秘史』(歴史新書)ではそうした話も、歴史家としての視点で扱っている。日本では、皇室についての話題は、まだまだ、おっかなびっくりで、菊のカーテンで情報を遮断したり、よいしょ記事で持ち上げておいて、雅子妃殿下の御不調のように酷い状況になってから、いびつに歪んだ報道をするだけだ。敬意を払うことは必要だが、それと情報を公開しないのは別だ。皇室は“究極の公人”なのだから。