毎年8月15日が過ぎると、世間の身替りの速さに白々しい気持ちになる。ちょうど地方支局にいた駆け出し記者1年目、昭和天皇が亡くなった時のことを思い出す。
あたかも全国民が悲しみに暮れるような記事を書いた、その翌日、産婦人科に行って、おめでたい平成第1号の赤ちゃんを取材した。当時はまだ原稿用紙に手書きだった。人の悲しみも喜びも、自分の指先手が魔法のように操っていた。内心では偽りの後ろめたさを感じながら、「仕事」という名目が自分の思考や感情を押しつぶした。記者という職業の歴史的な存在意味を理解せず、バブル社会と一線を画すことだけに矜持を保っていた。しょせんは功利主義の裏返しでしかなかった。未熟だったのだ。
ウソを書いたという実感はない。確かに取材相手は悲しみ、喜んでいた。だが、結局はみなが社会の空気に振動していただけなのだ。人びとは周到に慣らされ、素直に順応するよう仕向けられていた。私もまた、空気に流され、飲み込まれ、その一部になった。1日で社会が変わることなどあり得ないのだ。
かごの中に捕らわれた鳥の涙に同情を寄せていたら、いつの間にか、そのかごは自分を覆っていることに気付いた。同情していたのは鏡に映った自分だ。そんな感覚だった。
カントの『啓蒙とは何か』を読んだとき、まず思い浮かべたのはあの時の気分だ。
「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜け出ることである。ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、彼自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用し得ない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは彼自身に責めがある、というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気を欠くところにあるからである」(篠田英雄訳)
なまけ、怖気づき、安逸に流れていれば、未成年状態から脱することはできない。カントは、人間が自分の所属するある組織の義務を負い、それに従って任務を遂行することを理性の「私的使用」と呼んだ。服従を伴う理性だ。その一方、世界市民として公衆に呼びかける理性の「公的使用」については、完全な自由を得るとともに使命をも帯びる。
ところが、実際の社会においては、仕事こそ「公」で、そこから離れたものを「私」とする。そうなると組織を飛び越えて羽ばたくべき「公」の場が失われてしまう。未成年の状態にとどまっていては、公民の自由な思考が国民の精神に作用を及ぼし、統治の原則にも影響を与えるというカントの期待は裏切られる。疑問を発することを忘れた時点で、AI(人工知能)に支配されることになる。
そこで8・15について考える。
72年前。8月15日が過ぎても服役中の思想犯は鎖につながれたままで、9月26日、哲学者の三木清が劣悪な衛生環境によって獄中死する。外国人記者がそれを日本政府にとがめたが、時の山崎巌内相は、
「思想取り締まりの秘密警察は現在なほ活動を続けており、反皇室的宣伝を行う共産主義者は容赦なく逮捕する。また政府転覆を企むものの逮捕も続ける。共産党員である者は拘禁を続ける。政府形体の変革、とくに天皇制廃止を主張するものは、すべて 共産主義者であると考へ、治安維持法によって逮捕する」
と突っぱね、そのまま米紙「スターズ・アンド・ストライプス」に掲載された。マッカーサーは激怒し、東久邇宮内閣は辞職、思想犯は釈放される。8・15ですべてが変わったわけではない。好戦世論を煽った新聞はそのまま残り、岸信介や笹川良一、児玉誉士夫ら19人のA級戦犯が釈放された。ロッキード事件で児玉は訴追され、ダグラス・グラマン・ルートでは岸の名も浮上した。そして今、岸の孫の安倍首相が血眼になって戦後の清算を急いでいる。何かおかしいと疑問を発しなければ、永遠に精神の未成年で終わるしかない。
あの日を境に何かが変わったと考えるのは間違っている。社会や国家という大きな物語の中で、微小な個人は無力に見えるが、もし怠惰や怯懦に流されれば、未熟な奴隷になるしかない。個々人が自分の頭で考える理性の働きをなくして、健全な国民の精神も、幸福を実現する政治もあり得ないことは確かだ。肝心なのは、「変わった」かどうかの議論に閉じこもるのではなく、「変える」意思を持ち続けることができるかどうかである。
北京に駐在していた2年前、拙著『習近平の政治思想』(勉誠出版)のあとがきに、次の一文を書いた。
「今のこの時期、中国で記者をしている目的は一つ、「日中が再び戦争をしない」ために力を尽くすことだと思っている。互いが深く理解し合えば、不要な誤解や無意味な争いを避けることができる。現代に生きる者の責任は、今よりもよい時代を次の世代に引き継ぐことである。この点、中国で接してきた多くの人々も同じ考えを共有している」
その気持ちは今も変わっていない。そして現場にいる記者たちに問いたい。「君たちは何のために書いているのか?」と。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年8月18日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。