医療事故を起こす医師は謙虚でないのか?

中村 祐輔

写真AC:編集部

ネットニュースを見ていると「下手過ぎる医師の恐怖、病室の惨劇はこうして起きた」というタイトルの記事があった。群馬大学付属病院で起きた医療事故に関して、首藤淳哉さんという著者がコメントをしていた(JB Press)。最後のほうに、

「医療事故によって医師が業務上過失致死罪に問われるケースはほとんどないと言われる。だが医師は決して万能な存在ではない。いま医師に求められているのは、「わたしは間違えるかもしれない」という思いをどれだけ持てるかではないだろうか。命を扱うことについての畏れ。そういう謙虚さを持つ医師だけが、困難な手術に挑む真の勇気を手に出来るのではないかと思うのである」

と書かれていた。

群馬大学のケースは、一般的な謙虚さの問題ではないと思う。手術をした医師本人の問題は否定しようもないが、このまともでない医師をチェックするシステムの欠如が最大の問題である。また、医療事故といっても、いろいろなケースがあり、医療事故が刑事責任を問われないのは問題であるような論調には賛同しかねる。また、「医療事故を起こした医師=謙虚さを欠けている」かのような表現もおかしい。

医療関係者は、真剣で謙虚であっても、医療事故と背中合わせで診療に従事しているのだ。日本には「自分が偉い」と勘違いしている医師はたくさんいるかもしれないが、今や、「自分が万能だ」と思っている医師など、絶滅危惧種ではないのか?「自分は絶対に間違いを起こさない」と自信過剰の医師などは稀だ。

ドクターXのように「私、失敗しません」などとは、口が裂けても言えず、逆に、「失敗したらどうしよう」「間違いだったら、どうしよう」という不安が、常に心の中を過ぎっているのが実態だ。診断の難しい病気、治療の難しい病気、リスクの高い手術、難しさに日々苦悶している医師が大半だ。同じ病名の患者に同じ薬剤を投与しても、同じように効果が出ると限らないのが、現実世界である。

「どうしてよくならないのですか?」と聞かれても、「効かない人には効かない」と心の中で返答するしかないのだ。もちろん、そんなことを口に出して言ってしまえば、怒りだす患者さんもいるだろう。「どうして失敗したのですか?」と尋ねられても、それがわかっていれば、失敗などしない。医療に絶対がないにもかかわらず、ミスをすれば、許されない風潮にある。

そして、困難に挑む勇気を持って臨んでも、失敗すれば、人格を否定するような言葉が返ってくることも少なくない。失敗することは、患者さんや家族にとって不幸であるが、医師にとっても、後悔と一生の心の負担を背負うことになるケースが多いのだ。指紋が個人個人で異なるように、体内の血管の位置も微妙に異なり、それが静脈認証システムに応用されている。内臓が左右逆転しているなどの極端な違いを含め、本当に多様性に富んでいる。また、血管が予想以上に脆くなっている場合もあり、いくら経験を積んでも、予測を超える場合もあるのだ。

この群馬大学の例は病的に異常なケースであり、これは医療事故ではなく、犯罪に近いレベルであると言っていい。交通事故でも、単なる不注意から、死につながる事故もある。しかし、酒を飲んだり、違法薬物を飲んで事故を起こせば、確実に犯罪だ。群馬大学の事例は、運転能力がないにもかかわらず、大型車を乱暴に運転したケースと同じようなものだ。しかし、交通事故と同じで、日常診療の中では予測できない医療事故のリスクはあちらこちらに存在している。患者さんの安全を最優先にすることに異論はないが、真っ正直な医師が、ミスを起こし、それに対して過度な批難を浴びれば、その人たちの心が折れてしまう。

米国の「医師の燃え尽き症候群」は深刻な社会問題になりつつある。何かが起こると、まるで、医師全体が傲慢で謙虚さの欠片もないような論調の報道が溢れ、魔女狩り状態となる。そして、謙虚な気持ちで患者さんに接し、日々、心を痛めている医師たちが萎縮し、心が燃え尽きてしまう。

謙虚な姿勢は、医師に対して求めるだけでなく、すべての職種に必要ではないのか?当然、メディアに対しても求められるものだ!私はSTAP細胞事件の魔女狩り報道を決して忘れない。


編集部より:この記事は、シカゴ大学医学部内科教授・外科教授、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のシカゴ便り」2017年9月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。