群馬一区が全国屈指の注目選挙区になりそうだというのは、すでに新田哲史・編集長が「新・上州戦争!中曽根孫決起で群馬1区が全国最注目区に」で紹介しているとおりだ。
なにしろ、中曽根康弘元首相の孫、康隆氏が出馬表明したが、自民党公認を得るであろう清和会(細田派・旧福田派)の尾身朝子代議士(現在は比例選出)、佐田玄一郎元規制改革担当相(額賀派の小選挙区現職だがたび重なるスキャンダルで交代を要求されている)と保守3つどもえになりそうだからだ。
さらに、この選挙区には、前回比例復活の民進党・宮崎岳志氏、元維新の元職・上野宏史氏(小泉内閣官房副長官だった上野公成氏の娘婿もいるので大乱戦だ。
しかし、もうひとつ注目されるのが、中曽根康隆氏の母親があの文部科学事務次官・前川喜平氏の妹だということだ。たしかに、康隆氏の風貌には、中曽根家らしい凜々しさとともに、前川氏の飄々としたムードも感じさせる。
となると、あの安倍内閣に対して痛い打撃を与え、また、逆に出会い系バーへの頻繁な出入りを暴露された前川氏の対決の第二幕というようなことでもあり、前川氏が甥の応援にでも入れば、いよいよもってややこしくなる。
さらに、小池新党と結びつくようなことがあれば、ますます、話は魑魅魍魎だ。
もちろん、前川氏の爆弾証言が、中曽根氏を援護射撃しようとしたものだなどとは思わないが、一連の展開の中で、自民党大幹部の中曽根弘文氏の義兄ともあろう人が、野党と連携して安倍内閣を猛攻撃し、中曽根弘文氏がそれを止めなかったのは不思議ではあったから、もしかして、中曽根ジュニアの自民党、とくに、アンチ清和会の立場での立候補が予想されるなかでの読みもあったかもしれないというくらいは、あるのかもしれない。
さらに、考えると、和泉洋人・内閣総理大臣補佐官、豊田真由子代議士の配偶者、上野元官房副長官も国土交通省の建築系技官などというのも偶然にしては、良く出来た話といえるかも知れない。
いずれにしろ、いろんな不規則な動きがでてくるのも、安倍官邸とか清和会の圧倒的な強さとか、強引さが背景にあるのも、反対陣営の人々からすれば原因ということかもしれない。
そして、同じ中選挙区から福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三と三人の総理が出た、上州戦争といわれる群馬県政界のすさまじい歴史がその背景にあるわけだ。その群馬県政界の歴史については、「地方維新vs.土着権力 〈47都道府県〉政治地図」 (文春新書) という本に数年前に書いたことがあるので、その要旨を紹介しておきたい。
(参考)群馬政治史〜「地方維新vs.土着権力」より
碓井峠を通じて信濃に接し。三国峠の向こうは越後である上野国は、戦国時代には上杉謙信、武田信玄、北条氏政らの争奪戦の舞台だった。前橋藩を除くと小藩と旗本領が混在し、治安の維持のため、国定忠治のような親分衆の力を借りねばならなかった。養蚕が主力産業だったので、女性はよく働きカカア天下となり、男は博打が大好きということになった。
親子二代の首相を出した福田家も、高崎市郊外の豊かな養蚕農家だった。このあたりは、中選挙区時代の群馬3区は、福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三といういずれも総理となった3人と、それに社会党の山口鶴夫という顔ぶれが、1963年から1986年まで9回の総選挙でまったく同じ顔ぶれが当選し続けた。
福田と中曽根についていえば、1952年から14回も戦い続けたのであるが、1972年の自民党総裁選挙で中曽根が田中角栄の陣営にまわったことは、地元ではひどく不評で、それ以来、中曽根が福田に勝利することはなかった。
総裁選直後の選挙では、福田が同情票を集めて前回の倍近い17万8千票という記録を達成したので。最下位で当選した小渕恵三は3万7千票という全国の当選者で最低の得票だった。また、その次の1974年の選挙では、ロッキード事件で疑惑を持たれた中曽根があわや落選かと言うところまで落ち込んだ。
この二人は、いずれも、旧制高崎中学の出身だが、神童といわれた福田は第一高等学校に進み、それほどでもなかった中曽根は静岡高校へ入った。そののち、東京大学法学部で学び、福田は大蔵省に、中曽根は内務省に入った。
共通点は第一外国語がフランス語だったことだ。しかも、福田はイギリスにも駐在し、中曽根は政治家になってから英会話の勉強に熱心だったので、英仏語いずれも得意ということは、サミットのときなどにおおいに威力を発揮した。
小選挙区になるときには、小渕は出身が県北の中条町だったので、すんなり新5区から出ることになった。こうして「ビルの間の屋台のラーメン屋」と自嘲していた小渕は呪縛からかいほうされたかのようにのびのびと力を伸ばし、首相として二人の先輩以上に高い評価を受けることとなった。
一方、同じ高崎市出身の福田と中曽根では、すでに中選挙区で2回当選していた福田赳夫の子である康夫が新4区の候補者となり、中曽根は終身議員という約束で比例区に回った。ただ、この約束は小泉純一郎に反故にされることになった。
やがて福田康夫は、我が国で初めての親子首相となり、小渕の地盤は娘でTBSに勤務していた優子が継承し有望女性政治家として評価され、麻生内閣で内閣府特命担当大臣(男女共同参画・少子化対策)に、戦後最年少の34歳9か月で入閣を果たした。
県政については、こうした豪華な国会議員を擁しているだけに、陳情ごとなどは、あまり工夫などしなくてもよかった。もっとも、地元の人によると、福田も中曽根も田中角栄ほどには地元への利益誘導はしなかったので、新潟に比べると損をしたといっている。
いずれにせよ、内務官僚で副知事から昇格した神田坤六や、地元の経済人だった清水一郎の時代に、道路整備などが順調に進められていって、それが全国一の自動車保有率などにつながった。
清水のあと、どちらかといえば、中曽根系の支持で、副知事から昇格したのが小寺弘之。自治官僚で、最初に配属された愛知県庁で村田敬二郎(元通商産業相)や武村正義(元大蔵相)といった先輩の元に配属された。
全国に先駆けた企画として、県立病院整備費調達のために募集した「愛県債」は、このあと各地で流行したミニ地方債の先駆例となった。群馬県庁はもともと、利根川の急流が岸を洗う前橋城趾に建っていたが、そこに、超高層の庁舎を新築した。関東平野の真ん中にある前橋ではランドマークがないので、たいへんよく目立つし、都市景観としても好ましい投資だった。
周りにもないので、新宿副都心あたりからもよく見える。このところ、公共建築物は簡素にというのが流行だが、景観というのも公共建築にとって配慮すべき事項であり、こうした流れが正しいかおおいに疑問だ。
たいへん県民の人気もあったが、自民党の福田系県会議員と対立し、2007年の知事選挙では、自衛官出身の大沢正明県会議長が立候補し、激戦のすえに勝利したが、この選挙では福田康夫が陣頭指揮をとって小寺の追い落としに成功して、政治力についての評価を高めた。
【こんな政治家も】田辺誠は全逓出身で社会党委員長をつとめた。国対委員長として親交を深めた金丸信と1990年に北朝鮮を訪朝した。山本富雄は旅館経営者で参議院議員。息子が小泉側近の論客である山本一太である。
【歴代知事】北野重雄(1947年)伊能芳雄(1948年)北野重雄(1952年)竹腰俊蔵(1956年)神田坤六(1960年)清水一郎(1976年)小寺弘之(1991年)大沢正明(2007年)。もともと商工官僚だった北野は、官選知事と、最初の民選知事、いったん辞任したのち4年後に復帰と3回にわたって知事をつとめた。