この違和感、モヤモヤをなんとかしたい。徒然なるままに記しておこう。猖獗した日本社会に、私は満腔の怒りを込めて、この檄を叩きつける。
希望の党の、「12のゼロ」だけは許せない。この12の項目をゼロにしたいという「意志」自体は否定しない。ただ、HOWの部分と、それを実行するだけの知見や実行力を有権者が信じられないとしたならば、絵に描いた餅に過ぎなくなってしまう。いや、この「12のゼロ」は「絵に描いた餅」にすらなっていないのではないか。
いや、これは「絵に描いた餅」にすら失礼だ。「絵に描いた餅」にはまだ意義がある。まだ人々が見て、美味しそうとか、飯テロだとか思うからである。最初から、「どうせ無理だろ」という空気感が漂ってしまうのはいかがなものか。12のゼロどころか、実現ゼロになってしまうのではないか。コカ・コーラゼロ、氷結ゼロの方がまだ存在意義はある。これらの方針は、虚構でしかないことが既に露見しているのだ。ドラえもんのひみつ道具型政治を断じて許してはならない。
市民も馬鹿ではない。このポピュリズム、ジェネリック自民、ウルトラ右翼政党に対する怒りは、燎原の火のごとく燃え広がりつつある。希望ではなく、絶望だ。
この奇襲解散に合わせた希望の党の結成というのは、寝耳に水のウルトラCだったはずだが、ますます与党を強固にしてしまいそうなのが皮肉な話である。二大保守の時代かなどとメディアは煽ったが、一大保守の時代は変わりそうにない。
その与党も、革命や大○○を連呼するのはいかがなものか。このような大きな言葉を使うことによって、何かを成し遂げたかのように見えてしまう。一億総活躍にしろ、働き方改革にしろ、始まったと思ったら選挙になった人づくり革命や生産性革命も、具体的な取り組みはまだまだこれからだ。東スポの見出しのような、煽りではないか。いや、失礼。日本のクオリティーペーパー東スポの方がまだ上品だ。
市民は馬鹿ではない。このような普遍性を装った、美しい言葉、包帯のようなウソに騙されてはいけない。選挙戦も後半となったが、最後までこの国の行き先に曖昧な不安を抱きつつも、激しく直視することにしよう。
編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2017年10月17日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。